泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

環境管理型療育

 移動時間に一気読み。

自閉症児のための明るい療育相談室ー親と教師のための楽しいABA講座

自閉症児のための明るい療育相談室ー親と教師のための楽しいABA講座

 とてもテンポと歯切れのいいQ&A集。ひとつの質問に答えがふたつ。子どもの支援をしている者として面白く読める。「罰」を用いるようなずいぶんと思い切った方法もたくさん書かれているけれど、それも含めて興味深い。
 療育の本なので当然ながら、はじめから終わりまで「できることがよい」という価値観で一貫している。ほとんどすべて「こうすれはできるようになる」という話である。障害学だけやっている人が読めば、おそらくすっきりしない読後感が残るだろう。社会のあり方を問う姿勢なんて、ない。
 出てくる事例がもし30歳や40歳なら、自分でも違和感は増すのだろう。それが、4歳とか5歳だと、なんとなく不自然さもないまま読めてしまう。それがなぜか、と根源的に問われれば、うまくは答えられない。早期療育が有効だから、というのが唯一の理由とも思われない。
 外的な環境を変えることでできるようになる、というと「『できないこと』を本人のせいにしない」という意味において医学モデルから抜け出しているようで聞こえがいいが、では知的障害や発達障害において、環境と無関係に解消を目指される部分がどの程度あるだろうか(服薬?)。
 本人が「できる」ようになるために設定された環境を周囲に整えていく。本人が「できたい」かどうかは問われないし、そんなふうに設定されていると子ども自身も思っていない。障害の有無に関係なく、子どものうちはそういうことが当然のように行われて、責められない。実際、多くの事例をみれば、保護者の切実な悩みが本人に過剰な負担をかけることなく、解決されているわけである(この本では子どもが泣き叫びながら解決が目指されるような話もけっこうあるが)。それは子ども自身の生活の広がりに結びつきもする。
 「楽しみながら」「遊びながら」課題をこなすうちにできるようになるとしたら、もはや知的障害をもつ人への「療育」は一生涯でも続けられてしまいそうな気がする。いったいどこにどのような根拠で線が引けるのか。