泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

現場と学問の距離

 少しアクセスが多いと思ったら、とみたさんからリンクしていただいたようで。
「事件は現場で起きているんだ!」では…(とみたの大耳・小耳(改))
 置かれた立場としては対極的だけれども、スルメコラムの作者さん(過去に名乗っておられたこともあったと思いますが、一応伏せときます)が書かれて(引用されて)いる学問観に自分は概ね好意的である。自分の基本的な思考が社会学ベースだからかもしれない(でも、実はブルデューを全然読んでない怠慢ぶり)。
 たとえば、自分が「社会学理論として」好む理論観というのは、例えば次のようなものだ。 

社会学理論は失敗することによって、すなわち社会に関する普遍的な言説として流通・浸透し損なうことを通して、自分自身に抵抗しつつ自己を貫徹する。社会学理論が現代社会に対して「批判的」な機能を担うのは、この点においてである。つまり社会学理論は、コンスタティブな内容においてではなくパフォーマティブな効果において、現代社会が単一のパースペクティブからは把握されえないことを、また特定の「価値」「規範」によっては統一されえない分裂した存在であることを、示すわけだ。したがって、もはや理論の内容に準拠して批判的な理論とそうでない理論とを弁別することはできない。社会学理論はその位置価(Stellenwert)そのものによって「批判的」たらざるをえないのである。
馬場靖雄(2001)「二つの批判、二つの『社会』」『反=理論のアクチュアリティー』勁草書房、32ページ。

 研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。だから、自分はあまり「障害者福祉」の文献に期待しない。障害者福祉への言及なんてほとんど無いような社会学を読む。その観点から新たに見えてくるもののほうがずっと面白い。
 ここで「そんなの本当に現場で求められているのか?」と問われれば、「まさに『現場の人間』である自分が求めているのだ」と返すだろうが、これはあまり賢いやり方ではないだろう。自分みたいに考える現場の人間が少数派であることも知っている。では「多数派」とは誰のことで、何を求めているのか? それが判然としない。とりわけ「社会福祉」の現場においては。
 現場はどんな知を求めているのだろう。単純に自分の知らなかったことを知りたいのか。他の現場で起きていることを知りたいのか。自分の少ない経験では一般化してよいかどうかに自信のもてないことを確証してほしいのか。自分たちがやっていることを意味づけしてほしいのか。ときに、これらが全てひとくくりにされて「理論」などと雑駁に呼ばれ、社会的に必要なものであるように言われる。しかし、現場の人々がどんな「知」を求めているのか、について研究する者はほとんどいない。みんな自分が知りたいと思うものについて研究する。「自分が知りたいと思うものは、現場にとっても価値あるものだ」という前提をすべりこませている。そのような前提をおけるのは、どこかで自分を「現場」に(も)属する者と理解しているからに他ならない。
 そうした自己理解が問題視されるべきであるのか否か。その研究者の属性による制約もあるだろうから(社会福祉分野の場合、社会学とは少し事情が違い、実践者兼研究者というケースがたくさんある)、「現場と無縁を貫け」などとは言えない。ある理論を現場の目から徹底的に失敗させる、こともまた知の探求にとって重要であろうし、その意味で現場の人間には現場の人間にしかできない貢献がある。だから、現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者もまた存在してよいはずなのだ。ただ、そのような者はなんとなく「現場の人間」としてカテゴライズされて、研究者とは呼ばれにくい。せいぜい「研究協力者」だろうか。でも「協力」ではなく、主導的に「現場」の立場から研究したっていい。これらは立場の差ではなく「観点」の差なのだから、同じ者が「現場」と「研究」の間を往還することだって「理屈の上では」ありうるだろう。
 きっと自分の理想は、そんな「理屈の上」の可能性を追求することであるが。うまくやれているという自負は、ない。たぶん、どっちかに傾いてしまったほうが楽である。