泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

生きる力

 養護学校から「自閉症児に対する『構造化』の大切さとかがわかっていない教員がいるから連れていく。話してやってほしい(大意)」という連絡。明日、来るらしい。いちおう書いておくと、構造化というのは簡単に言えば、自閉症児に対する望ましい環境の整え方のこと。
 世代も、受けてきた教育も、これまでのキャリアも違ういろんな教員がいるわけなので、「外部」を使ったほうがスムーズに話が進む場面もあるのだろう。そういう頼られ方をするのはありがたいことだが、うちのような事業所でやっている「構造化」はさほどのインパクトはないだろうと思う。
 本人が楽しく過ごせるように、他の子どもたちと軋轢なく過ごせるように環境を整えると、あとはさほどの工夫がなくてもやっていけてしまう。日々の変化が少ないので、こちらから改めて子どもたちに伝えなければならないこともほとんどないし、子どもたちからこちらに要求しなければならないことも少ない。要求するよりも前に実現できるように環境は整っている。学校ならば、あえて要求行動をとるように、自発的なコミュニケーションをとるように「仕組む」ような場面でも、わざわざそんなことはしないし、する必要もない。もっぱら悩むのは「楽しめるものが極端に少ない子どもの過ごし方」である。
 ただ、学校でやっていることの定着度を高めようとすると、事業所でも学校と同じようにしたほうがいい、というのはわからないでもない。たとえば、学校では写真カードを使って意思表示するように求められているのに、他の場所では全くそれを求められない、となれば、自発的なコミュニケーションの習得は非効率かもしれない。しかし、本人が自分で手を伸ばせば届くところに置いておけばよいものをあえて隠してみたり、指差しと少しの発声でこちらとして意味がわかるものをわからないふりをしてみたり、というのは、はたして自然な「生活」のありようなのだろうか、とも思う。
 学校は「やりたくもないことをやってもらわなければならない」ということが出発点にあるという点で、苦労の多い場所である(この点では、しばしば「作業所」等も同じ課題を抱える)が、その裏返しとして、躊躇なく「あえて」子どもたちに求めることができる。しかし、自分たちはあえて求める理由がない。それでも、あえて求めた結果として何かができるようになれば、生活していくためにも役立ちうるとは言える。また、自閉症の障害特性的に、こっちで「あえて」やっていることは、そちらでも「あえて」やってもらわないと困る、と言われれば、それもまたもっともな話とは思う。
 こうして「福祉」は「療育」「教育」に引き寄せられて葛藤する。人が生きるのに必要とされている「力」が、社会的歴史的に規定されたものでしかないことを次々と告発していった末に、最後に何が残るのだろう。そこで、やはり「療育」から逃れられなくなるのだろうか。あるいは何も残らないのだろうか。