泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

珍しく障害児の放課後関連の研究だと思ったら

 学会誌、届く。
 匿名で人様の論文についてとやかく言うな、と言われかねないので悩ましいのだが、事実誤認については放置するわけにもいかない。
三好正彦(2009)「障害のある子どもたちにとっての学童保育 ――社会的インクルージョンの可能性――」『社会福祉学』49-4、52-64。
 まず、筆者は、特別支援教育がはじまったことの影響として

…特別支援学校が実施後全国で11校も増設され、これまで普通学級で学んでいた経度発達障害の子どもが、配慮が必要という理由で特別支援学級に取り出されて指導を受けるという場合も増えている(国民教育文化総合研究所2007:1)。
 このような流れのなか、障害のある子どもたちが人間関係の構築する機会が得られず、地域とのつながりが不足するという現象が起こっている。特に地域との学校とのつながりが希薄であれば、地域の子どもたちと関わる機会も少なくなる。このような人間関係構築の困難という課題は個別的支援の陰に隠され、置き去りにされている感は否めない。特別支援教育は、このようにミクロ的にもマクロ的にも分離の方向へと進ませる危険性をはらんだ施策であるといえるだろう。(53ページ)

 と言う。文部科学省の学校基本調査によれば、平成14年度以降の盲聾養護学校および19年度以降の特別支援学校の数および生徒数は以下のとおり。

年度 学校数 生徒数
14年  993  94171
15年  995  96473
16年  999  98796
17年 1002 101612
18年 1006 104592
19年 1013 108173
20年 1026 112334

 そもそも「11校」の根拠がわからない。引用文献にあたれないのが悔しいが、どこをとっても11校にはならない。いつからいつまでに11校なのだろう。
 少子化の中で小中高校の総数は減少傾向にあるのだから、そんな中で「別の学校に通う障害児」が全体として増えていることに意味を見出そうとするのはよい。しかし、その生徒数は特別支援教育の開始された19年度から増えたわけではない。その前からずっと一貫して増えている。
 学校数は確かに19年、20年とやや増加傾向にあるように見える。しかし、そもそも特別支援学校は多くが非常に広い地域から生徒が来ているのだ。このあたりでも、スクールバスで1時間とか1時間半とか。とりわけ低学年の子どもにとって、それがどれほど不自然なことか(まあ、バスが大好きという子どもも多いけど)。むしろ増えてくれなければ、遠くの学校に通い続けなければいけない子どもが多いままなのである。
 新入生が数名増えただけで、1クラス増やさなければならない、という子どもたちである。地元の特別支援学校は生徒数の増加に対応しようとして増築に増築を重ねたり、特別教室を転用したり大変な苦労をしている。生徒数の増加がとりたてて「特別支援教育の開始」によるものでないとしたら、学校増は否定的に理解されることではない。
 「配慮が必要な子が特別支援学級に取り出されて指導を受ける」ことが、問題ある「分離」と直結される理由もわからない。さらに、ここから「地域とのつながりの不足」が起こっている、というのは全く根拠がない。「個別的支援の陰」って何? 集団の中で周囲と関係を築いていくことに困難さを抱えているから、個別的な支援が必要なんじゃないの? 「身体障害」ではなく、「社会性」とか「コミュニケーション」の障害に対する「集団的支援」って何? これまで軽度発達障害児に対する「集団的支援」があったの? どこに? 定型発達の集団の中で過ごすこと=集団的支援? それって「支援」なの?

 津田は『情緒障害と統合教育――インクルージョンへの道』(津田 1997:25)のなかで、がっこう、学級における障害のある子とない子の統合を3つの形態に分類している。1つ目はひとり担任方式であり、ひとりの担任が障害のある子どもを含めて、全生徒をみるという形である。2つ目は、補助担任方式で、担任のほかにサポートとして補助の教師が入って運営を行なうというスタイルである。3つ目が、校内通級方式であり、普通学級に籍をおきながら、特殊学級などを適時利用するというものである。
 この分類を基に、障害のある子どもを受け入れる学童保育の分類を試みた。まず、1つ目は「学級タイプ」で、いわゆる一般的学童保育所に障害のある子どもたちが入って生活しているという型である。「学級タイプ」のなかで、その統合の形としてさらに細かい分類は可能であるが(上の統合の3つの形態から分類することも可能)今後の課題としたい。このタイプの特徴として、対象が小学生までとなっている場合がほとんどであり、補助が必要な子どもには加配の指導員がつく場合が多い。
 2つ目は「統合保育タイプ」であり、障害のある子どもと健常児の統合を目指す場として存在している学童保育所である。特徴として、全体的に障害のある子どもたちの比率は高い。障害のある子どもたちの対象は高校生までで、補助が必要な子どもには指導員が1対1の対応となる。指導員は、健常児とのつながりを意識した保育を行なっている。
 3つ目は「障害児学童保育タイプ」で、主に養護学校に通う子どもたちを対象に、高校生までを対象としているところが多い。主として、障害のある子どもだけで構成されている。上記2つのタイプと異なり、土曜、休日、長期休みが主たる活動時期となり、放課後に行なわれるものではない。また活動場所に関しても地域における施設を有していない場合が多い。これらの点において、このタイプが学童保育としての定義にあてはまるのかも含めて議論は必要である。
 これらの分類は筆者の経験に制約を受けた試掘作業にすぎないことは自覚しているが、今後に向けた積み重ねの一歩として、以下、この3つの形態の特徴を有する学童保育所での具体的な事例を通して分析を行なった。(55ページ)

 津田さんの分類がどう「基に」なっているのかもわからないし、これは学童を利用する子どもたちの構成も目的もごちゃごちゃになっており「分類」になっていない(互いのカテゴリーが排他的でない)。そもそも「学童保育」という言葉を用いるときは「保護者の就労」を前提にしている。「放課後子どもプラン」をほんの少しでも読んだことがあれば、子どもの放課後における「学童」と「学童以外」の関係性は理解できるはずだ。就労を前提にしないものについて、障害児について「学童」という言葉を使うことはない。ゆえに「障害児学童保育」が土日長期休暇のものだ、という整理は、意味をなさない。「放課後ケア」関係の調査でも、あえて土日長期休暇だけのものは含まなかったりする。
 また、就労を前提にしていても「学童」という言葉を使わない場合が非常に多い。児童福祉施策としての学童ではなく、障害者福祉施策としての各種サービスがあるからである(参考:「改めて放課後のこと」)。一方で、依拠する制度は「学童保育」でなくても「障害児学童」と銘打って、毎日開所しているところも存在している。このあたりがわかりにくい話ではある。
 ところが、こんな整理をしておきながら、終盤ではこう書く。

 「障害児学童保育タイプ」に関しては障害のある子どもの親たちの働く権利保障、また親と子だけの関わりからの脱却などの目的がある。どちらのタイプ(引用者注:「統合保育タイプ」および「障害児学童保育タイプ」)も学童保育全体からすれば少数派であるが、共通していえることは、障害のある子どもたちの社会的居場所のなさが背景にあるという点である。(62-63ページ)

 土日長期休暇しかやっていないものが、どうやって「働く権利保障」になれるの?
 各学童での「エピソード」もあれこれ書かれているが、もしここを読んでいる学会員がいるなら、ぜひ次のような視点をもって、全エピソードに目を通してほしい。各エピソードの「障害をもつ子ども自身にとっての意味」と「障害をもたない子どもにとっての意味」は何か、と。おそろしいほどに、それが後者に偏っていることがわかるはずだ。「いま、ここ」の障害をもつ子どもにとっての意味はどこにあるか。「地域の学童保育所でインクルーシブな実践を行うことができれば、それがそのまま地域社会に還元され、学校、家庭にも影響を与えることができる(63ページ)」という回り道をして障害をもつ子どもにも意味をもつと言うのだとしたら、それを経験的に検証しなければならない。検証された例は、自分の知る限り、ない。検証するつもりがないのであれば、これは「障害のある子どもにとっての学童保育」についての研究の一環にはならない。「障害をもたない子どもたちが、障害をもつ子どもとともに過ごし、考える姿っていいよね」と思えた経験から、漠然とした形式的な「包摂」を「共生社会の可能性」と錯誤しているに過ぎない。それは実のところ「インクルーシブな教育」が求めるものから、最も距離のある態度であると思う。
 社会福祉学会の査読者の質については自分の周囲でもいろんなことが言われているが、学会として課題になっているという話は聞いたことがない。何か今後に向けて検討されているのだろうか。
 なお、自分はもちろん「ともに過ごす」に否定的な立場ではない。そのための支援をまさに学童保育所でやってきたし、障害をもつ子ども自身にとっての意味もたくさん見えた。学童保育所がその子にとって良いか悪いかはケースバイケース。