泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ガラス窓

 2枚を叩き割られ、蹴り割られる。思春期は難しい。「うちの子(※健常児)も高1のときに叩き割った」とかいう大人多数。自分の意思を伝える力を十分にもたないまま、そんな時期を迎えてしまうのだから、いっそう大変だ。
 原因をあれやこれやと遡っても決定的なものはなく、どれが原因としても「そんなに怒ることじゃないよなあ」と思える。これまでも、事前に見せていた絵カードとちょっと実物が違ったから怒って他傷、とか、他の子どもからちょっと声をかけられてイライラして物損、とか、障害特性とはいえ、あまりに柔軟さが無さ過ぎやしないか、と思うことは多い。それでも、また同じことがあってはならないから、支援者は小さなことでも反省するしかない。
 抽象的な内容についての意思表示がもう少しできれば、お互いに楽なのだけれど。

(2/7追記)
ブックマークコメントをくださったBUNTENさん、AFCPさん、ありがとうございます。それぞれのコメントに共感してます。カードの「抽象度」については、その後、実際そのような対応になっています。そのときは一日のスケジュールの中で、調理で作る予定のものをイラストで示していただけなのですけどもね。「のり巻きの長さがイラストと違う!」で支援者が髪の毛つかまれて叩かれてというのは、本人にとって見過ごせない違いであるとは理解しても、やはり周囲としてはつらいものがあります(もちろん理由がそれだけであるという断定はできませんし、複合的なものとも思いますが、このときは実際に長さを直したら、あっさり落ち着いた)。こうやって「気持ち」とか「情動」の強弱に共感するのが困難になると、いっそう「行動」に注目が集まっていくのかもしれない、と思います。だとしたら・・・なんだかすっきりはできません。「わかりあえる」とか「わかりあえない」とかいうことの意味について、考えさせられます。