泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

SSTとかデンマークとか

 少し下降気味。理由わからず。帰宅すると不安定。
 SSTを見学してきた。はじめて見たが、実践されている人たちの理論的基盤は応用行動分析らしく、たしかに教科書どおりにやっていた。院で専門に勉強した上で実践している人と直接に話ができたのははじめてなので、応用行動分析に対する自分の理解が間違っていないかどうか、少し確認できたのが、何よりも収穫。みんながみんなベースラインを定めて、データをとって、というふうに堅実にやっているわけでもないということもわかった。行動分析的な方法は、自分たちの仕事の中にもあるけれども、どうも地道にこつこつやりにくい。支援目標の違いとか、環境の変化が激しい外出場面が多いとか、いろいろ理由は考えられる。しかし、あと少しで放課後の居場所づくりをはじめたら、きっと今までとは違うことで悩むようになるはずだ。
 小集団で隔週1.5時間のSST。家庭や学校などとの連携はなかなか難しいようだが、地域の学校に通っていて、担任の無理解に苦しんだりしている人にとっては、大きな支えだ。民間で有料(もちろん安くない)だが、学校の担任に子どものことを説明しに行くこともあったと聞く。改めて、障害をもつ子どもを中心的に支えるのはどこの誰であるべきなのか、を考えさせられる。
 実践の内容そのものは真似できないと強く思えるほどに特別なものではない。知的障害が中重度の人ばかりと接している自分たちにとってみれば、ある部分はやりやすいように感じられる子どもが多かった。地元の養護学校の高等部あたりで行なわれていることとも重なる部分はあるようだ。一方で、その教室で人間関係が生まれ、いっしょに遊びに行くようになるなど、副次的な効果も出ているらしい。
 それから、デンマークからやってきた実践者から、就学前の障害児のことについて話を聞く機会もあった。養護学校と同じで、統合についてはずいぶん反省されて、「無理な統合はしない」方向性が強まっているそうだ。「一般的な幼児教育の範囲では発達障害に対する専門性が足りないし、同じ文化をもっている子どもどうしのほうが良いこともある」みたいなことを言われたので、「その説明って、発達障害の専門性が高まったら、一般の幼稚園でももっと統合できるってことにならないか?」ともうちょっと食い下がってみるが、「専門性をなめんな(大意)」という感じの返事だった。そりゃそうだ。聞き方に失敗した。むしろ「重度障害者に対する一般の人の障害理解はそれで問題なく進むのか」「それで保護者は納得するのか」「それで地域社会と切り離されてしまう不安などは訴えられないのか」など聞くべきだった。講演でも質疑応答でも、ほとんど親の話が出てこないところに、日本との差を感じる。いま日本の幼児教育関係者を集めて議論したら、きっと親の話ばかり出てくるだろう。もっといろいろ聞きたかったのだが、時間的な制約に加えて、日本と違う点が多すぎて、こちらの真意を理解してもらえる形で質問するのが難しかった。
 統合に対する姿勢にしても、親の就労の有無にこだわらない制度設計にしても、日本で同様の主張をする現場の人間あるいは政策サイドの人間はたくさんいるわけだけれど、歴史的社会的文脈が違うと同じ意味には全く聞き取れない。「専門性をなめんな」という幼稚園の先生のキャリアは、全く幼稚園に限らず、触法精神障害者グループホーム、心身障害者の居住棟、社会不適応児の通所施設など、ものすごい幅の広さ。対人援助職につくための実習時間数もケタ違い(転職するための勉強にかかる財政的支援もケタ違い)。日本の保育士や幼稚園教諭がこれぐらい経験積んだ上で「この子の障害ならば、もっと専門性のあるところに通ったほうが」と言うなら、もうちょっと受け止められ方も変わってくるだろう。
 眠い。寝る。