泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「仕事を辞めて、家でみる」という叫び

 ニュースから得られる情報は断片的だし、なぜこんなことに、なんて問うたところで、たったひとつの答えなんてないけれど。「妄想」からでも、考えを深められるとしたら。
福岡男児殺害事件 時系列の整理(AFCPさん)
http://homepage3.nifty.com/afcp/B408387254/C174902512/E20080923211301/index.html
 今日は、朝から発達障害の子どもたちの親たちの集まりに参加していた。美しく言えば「セルフヘルプグループ」。片仮名書きにするほどには方法的に洗練されていない。それでも、日ごろの思いを吐き出すだけの場に、きちんと人は集まっている。解決策が提示されるわけでなくても、人は集まる。
 「居場所」は、探せばどこかにあるのだろう。福岡市は、大都市だ。同じようなことに苦悩する母親どうしがきっとどこかで集まって、愚痴りあっている。相談機関だって、あちこちにある。それらと関与があったのかどうかは知らない。ただ、とにかく誰も救いきれなかった。子どもも、親も。

通っていた学童保育の利用が急減した際、運営する市側は電話で理由を確認しただけで、その後、家庭訪問など虐待リスクに配慮したきめ細かい対応を取っていなかったことが23日、分かった。(産経 9月23日)

 「運営する市側」というのが、誰のことなのかはわからない。普通に考えたら、現場の指導員だろう。
「利用がずいぶん減りましたね」
「仕事を辞めたので、家でみることにします」
「そうですか」
 学童としては、自然なやりとりである。年度途中の入所も退所も全く珍しくない。母親からの「働かねばならないから、子どもを学童に預けなければならない」と「仕事を辞めたので、子どもを家でみることにする」の両方が、何かの「叫び」「訴え」である。そう理解できるだけの鋭敏さをもつ支援者がどれだけいるのだろうか。
 国は、いま小学生(低学年)の19%が使っている学童の利用児童を将来的に60%まで引き上げたいと言っている。おそらく、国が積極的に利用を奨励する唯一の「福祉サービス」だろう。しかし、学童の利用児童が多いということは、放課後に母親といっしょに過ごせない子どもが多いということでもある。まともに子どもの支援をしている者ならば、家族と過ごせるにこしたことはないと思うだろうから、「仕事をやめて家でみる」というのは、事態の「好転」と受け止められてもおかしくない。それが誤解かもしれないと疑えるかどうかに「支援者」としての力量が問われている。
 今日、親たちの集まりの中でも散見された、支援者への「諦念」「断念」。あきらめた親たちは、静かに自分から退出していく。怒りも悲しみも見せずに。自分から出ていったのだから、仕方がなかったと言われる。多くの孤立はその結果である。「あきらめました」と言える相手がいる者はまだ救いがあるのかもしれない。それさえ言えなくなったら、悲劇の引き金にもう指はかかっている。
 逆説的だが、自分たちの行なっている支援に失望して離れていった者がいたとすれば、どこかで「あの事業所には失望した」と誰かに話せていてほしい。悪評はおそろしいが、それは最悪の事態をきっと防いでいる。