泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「できる」ことの呪縛

 数ヶ月後から日中一時支援事業をはじめることになった。
 「一時預かり」とは呼びたくないので、適切な名称は考えたいが、障害をもつ子どもが一定の時間を過ごす場所を地域にひとつ増やすことになる。家を探す時点で、当然に予定はしていた。職員間で開始時期のイメージには違いがあったが、結局、自分の意見が通った。
 ずっと外出場面だとか、学童保育所内だとか、環境をこちら側の意向で変えるのが難しい所での支援ばかりしてきた。場所の使い方やプログラムを自分たちで設定できる支援というのは、希望に満ちている。その反面で「何を大事にしたいか」という問いを突きつけられてもいる。
 主には学校の終わった後の支援になる。学校の延長にはしたくない。学校の延長になることを嫌うのは、きっと子どもたちを「教育」する場にはしたくない、という意識があるからなのだろう(多くの学童保育所が「授業のない『学校』」に過ぎないことをさんざん見てきた経験も影響しているかもしれない)。集団に対して、何かしらの課題を与えて・・・なんてことをするはずがないのは当たり前だ。しかし、話はそれほど単純でもなくて、ある場所での子どもたちの過ごし方、支援者とのコミュニケーションの図り方などを検討していくと、何かが「できる(ようになる)こと」に価値をおくことの呪縛から逃れられないことに気づく。何もしないでおくと、みんながすることなくゴロゴロと過ごすだけで終わる恐れだってある。楽しめるものは少ないより多いほうがいい。自分の意思は伝えられないよりも伝えられたほうがいい。他の子どもの遊び道具を奪うより、奪わないほうがいい。食事の前には手を洗えたほうがいい。
 それぞれに「できない」理由はいろいろとあるわけで、それを「できるようにする」方法というのも多様だ。できるようにすることの全てが「教育」的かと言われれば、そうは思わない。我々は、教育という意図的な実践の中でのみ、何かを「できる」ようになっていくわけでもない。それは「遊びの中で」とか「日常生活の中で」とか言われたりする。
 障害をもつ子どもたちであっても「放課後なのだから遊びの中で」と言ってしまいたい。ところが、自然な遊びを通じて学んでいくことに限界をもつ子どもたちである。周囲は、環境の構造化やら、コミュニケーションのためのツールの利用を通じて「できるようになること」を求める。これを「本人が楽しく過ごすために必要だから」とか「学校や家庭と違う手法を用いて混乱させないように」などと正当化するのは簡単であるし、おそらく実際にも積極的に導入していくことになるのだろう。しかし、この延長として「あれもこれもできたほうがいい」と過剰な目標設定をしていくことを防ぐための決定的な基準というのは何なのだろうか。そんなものが果たしてありうるのだろうか。「『学校』では、『がんばって』いるのだから、ここでは本人が負担に感じない範囲で」というのも、すっきりしない。その判断の正しさを確信できる者などいないはずだ。
 これは机上の抽象的な議論ではない。保育士や教員の出身者を雇うことが多くなってくると、これは極めて現実的な問題になっていく(すでになりかけている)。快適に楽しく過ごすために何かしらの力が必要である、というのは悩ましい。また、特定の子どもたちにとって「学校」と「放課後の居場所」あるいは「教育」と「福祉」の意味的な区別って、どんなものなのだろう。特に区別しない子どもであれば、こちらが学校との差異化に悩む意味も無くなってしまうのだろうか。