泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

短めのまとめ

 子どもたちの夏休みも終わり、次第に事業所は穏やかさを取り戻しつつある。
 この数ヶ月のことは頭の中でしっかりと振り返りつつも、文章にするエネルギーがなかなか湧かない。
 いろいろあったけれど一番大きかったのは、地域の学童保育所の中で支援していた子どもの一部を別の場所に移したこと。いわゆる「障害児学童」の第一歩、とも言える。古い民家をけっこうな安価で借りることができた。「よかったね」と言ってくれる人もたくさんいる。実際、子どもは学童では考えられないほどのリラックスぶりだ。あらためて自閉症児の障害特性を痛感させてくれている。
 しかし、多くは結果論であって、そこに至る経緯は決して前向きな話ばかりではなかった。決定的だったのは、学童の指導員の無理解とそんな中にスタッフを派遣し続けることの困難さ。自分は精神的につぶれてしまい、多くの重要だが面倒な仕事を若い職員たちにまかせることとなった。まだ新卒2年目(とはいえ、ボランティア時代から数えればもう9年目)のスタッフが連日の長時間労働にもめげずにがんばってくれたおかげで、今のひとまずの平穏がある。
 ただ、苦しい中にも精一杯の尽力をしてきた学童を離れてしまったことで、悲しくも自分のやりがいはひとつ消えた。5年以上もやってきて、養護学校に通う子どもも学童に行くことのできる形式的制度的な基盤は整えられたと思う。うちからの加配スタッフ無しでの受け入れ事例も複数できた。しかし、自閉症児を中心として多くの配慮が必要な子どもに対して、理解ある指導員を現場で育てていくことは結局できなかったのだ。それは、単なる障害児観との戦いではなく、子ども観をめぐる戦いでもあったと思う。戦いと言っても、ケンカを売ることも買うことも極力抑えながら粘り強くやってきたつもりだ。そんな苦労はなんだったのだろう。
 先のことを考えれば、まだこれからやらなければたくさんある。借りられた民家もおよそ5年の時限つき。学童の制度も次年度以降どんな方向に展開させていくのか。就労保障以外の支援はどう進めていくのか。金はどうするのか。悩みは尽きない。
 なんだかよくわからないが、心の中のどこかのスイッチが入ったらしく、とにかくこれを機に新しいものを生み出してやるぞという気持ちにはなっている。ただ、法人全体は夢を語る雰囲気にはない。熱く生活支援を議論しようとする雰囲気にもない。「現実」に立ち向かう苦しい仕事から長く離脱した自分が何を偉そうに言えるだろうか。しばらくは死ぬ気で毎日働くだけである。