泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

誰が痛むのか?

政府の仕事、民間の仕事
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080420/p1
 昔、この組織と関わりがあったのである。複数の職員さんにお世話になった。だから、最近の動向を心配している。
 例の知事は支持率がまた上がったらしい。彼が自らの「信念」を貫きとおしさえすれば、周囲はみんな「抵抗勢力」とされていくのだろう。同じような構図をうまく活用した首相もいた。彼の「天然」なのか「策略」なのかは、知らない。
 大多数の一般市民にとって、行政なんて少しばかり小さくなったって、どうってことないものなのだ。「みんなで少しずつ痛みを」なんて、できっこない。政府が単純に小さくなれば、特に分配が必要な者から苦しむことになるのは当然ではないか。「自分は払うばかりで受け取っている実感がない」から「税金が無駄遣いされている」と短絡する人々には、「再分配」の必要なんて、ほとんど理解されていないのである。思い返せば、自分が子どものとき、「税」の使途についてどんなふうに教わっただろうか。
 試しにネットで子ども向けのサイトなど検索してみる。
http://www.pref.toyama.jp/sections/1001/kids/kitokito_kids_4/mirai.html
http://www.city.yokohama.jp/me/kohoku/kids/ku/whats_zei.html
http://www.city.akita.akita.jp/kids/fntc/question.htm
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/nouzei/1176296_903.html
 どれも同じようなものだ。学校、警察、消防、道路、公園、図書館、ゴミ収集・・・。自分以外の誰かのためにも使われうる金だと習った印象があまりなかったが、どうやらその記憶は誤っていない。「みんなのため」の税金であり、「みんな」にはいつでも「私」が含まれている。「私」が必要なものを得るために、「私」が税金を納める。誰かの暮らしの困窮を想像させようという気さえない。
 話を戻す。いまドーンセンターから自分が支援を受けているわけでもなく、支援を受けている知り合いがいるわけでもない。職員に友人がいるわけでもない。ついでに書けば、自分は大阪府民でもない。それでも、言わずにはいられない。ドーンセンターは無くなってはならない。民間にやらせればいいとかいうなら、試しにやらせてみれば、同じようにできないことはすぐに明らかになるだろう(そんなくだらない実験をする前に思いとどまってほしい)。現状では、「民間」を「他機関」に置き換えても、同様。フェミニスト・カウンセリングを同じ水準で行なえるところが他にあるのか。ライブラリーの機能は他の図書館で代替できるものなのか。「専門性」というものを侮ってはならない(この意味では、「施設は残すが、財団は廃止」というのは、「財団は残すが、施設は廃止」以上にタチが悪いと思う)。
 このまま強引に事が運び、ドーンが無くなっても、大阪府そのものが崩壊することはない。結果として「勇気ある思い切った歳出削減だった」という評価になるのかもしれない。しかし、多くの人が何の関心も示さないところで、一定数の女性たちの日々の苦しみや不安は放置され、増幅される。あたかも「使えるものは、それぞれの地域に再編整備された」かのような顔をして。形だけ整えてアリバイを作っておくのは簡単なのだ。「無い」ことは責められるが、「在るが、力は無い」ことは責められない。こうして、必要な資源が巧妙に消されていく。