泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

社会を変える手段、の選ばれ方

 dojinさんが、サラモンの本を紹介していて、これは読まなければ、と思っているのだけれど。
NPOと公共サービスの関係についてメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20080210
 自分がNPO関係の文献を読んでいたのは、修士課程の途中ぐらいまでで、もうずいぶん長い間、その後の研究を追えていない。一応、まだNPO学会には入っているが、学会誌の論題だけ見ても、社会全体の設計を論じるような研究は見当たらない(ほとんど読めていないので、確信はないけれど)。
 2000年頃は、まだ研究書らしいものも少なく、実務的なNPO立ち上げガイドか、ビジネスの領域では注目されてこなかったような実践の事例を具体的に紹介するものがほとんどだった。NPOの存在意義について理論的に整理をするときは、たいてい他セクターとの比較が用いられ、「政府の失敗」と「市場の失敗」にNPOは対応できるのだ、とよく言われた。今でも、そのような説明がされているのかどうかは、よく知らない。
 当時20代半ばだった自分の周囲には、まさに「社会を変えたい」と公言してはばからない同世代がたくさんいた。環境・国際協力・福祉・・・、テーマはそれぞれに違った。素朴な市場原理主義に対しては、皆が否定的だったと思う。しかし、ではオルタナティブとして何を提示するのかというのは、さほど明確でもなかった。ただ、自分の周囲に関して言えば、政府に対する運動中心のNPOよりも、事業中心のNPOのほうが評価されていたし、当時は全国的にそうした潮流だったと思う。「これまで一般的には関心を持たれていなかった領域に、多くの人を巻き込むべきだ」、それも単に熱っぽく問題について語るのではなく「これまでに無かったような方法で、人をひきつけなければならない」、そして「これは行政が何とかすればいいということではなく、市民ひとりひとりが考えるべき問題なのだ」など、従来の運動に対する不満が垣間見えた。大学を卒業して、民間企業に就職して、自分の生活を大切にして、他者のことは気にならない。そんな人々の意識を変えたいという点では共通していたかもしれない。
 高い費用負担を求めて支援を提供するような団体は、当時でも存在していたが、あまり関心を払われなかった。それが問題当事者によって運営されているとか、ファンドレイジングを工夫しているとか、単なるビジネスモデルにとどまらない特徴をもっていたときだけ注目される。
 障害者支援で言えば、とにかく話題になるのは「障害をもつ人がこれまでにできるとは思われていなかったような仕事をして、しっかり稼げている作業所」ばかりだった。一般の人たちに売れる商品やサービスを提供できているNPOで、なおかつ行政から財政的な自立度が高い。「閉じられていて、どっぷりと行政依存的な障害者福祉」を批判することは、さまざまな努力と実績を積み上げながらも行政からの支援を受けてこられなかった分野の人々にとって、気持ちよさそうに見えた。この傾向は今でもあまり変わっていないように思う。
 ここで変えられようとしている「社会」とは、何だろうか。それは「日の当たらないところ」だ。NPOに期待されているのは、そこに光を照らすことである。しかし、どうやって? 
 そのための手段を多くの実務家は問わないだろう。必要な支援が思うように運営できるならば、財源は補助金だろうが、助成金だろうが、寄付金だろうが、事業収入だろうが、何だって構わない。具体的な不利益がなければ、入ってくるものを拒む必要はない。獲得できるものは、全力で獲りにいこうとする。ただ、一定の順序は決まっている。補助が受けられないなら、助成金を探そう。助成金が不安定なら、自分たちで稼ごう。NPOを起業する者が、なかなかはじめから自分たちで稼ごうとしないのはなぜか。それは、自分たちが立ち向かおうとする支援ニーズに対する「責任」はどこにあるのか、という問題意識が拭いされないからだ。すなわち、「日の当たらないところ」は「ニッチ市場」と同じなのか、ということである。
 この違いを判断するのに、「ビジネスとして採算がとれるか、とれないか」を指標にしたらよいだろうか。単純に採算がとれるならば、市場化でOKだろうか。いくら金を積んでも、支援を買いたい者はたくさんいる。買わざるを得ない者もたくさんいる。だから、ビジネスにすれば簡単にできるなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、結果だけ見ればビジネスとして成り立っている、という事例はたくさん想定できる。そこで、一部の消費者が「払えない」と感じたときに、「払えない」ということを誰にどう伝えるか。事業者に「払えません」と言えば、「企業努力」が必要と反省されるか、「払えない以上は使えません」となるかのどちらかだろう。話は二者間で完結して、いずれに転んでも、これを「ビジネスとして成り立っていない」状態だという者はいない。
 買う側から見たとき、「なぜ払わなければならないのか」という疑問の抱き方は、すでにビジネスとして成立している領域の範囲と無関係でないから、時代とともに変わる。数年前に社会福祉協議会で結婚相談をしているところの話を聞いて驚いたことがあるが、市場化されて一応まで認知されれば、市場で買うのが当たり前のことになり、その周辺のニーズも次第に市場へと吸い寄せられていく。
 それでも、市場化されている例があるにも関わらず、それが当たり前にはならない例もある。自分たちがやっているような、障害者の地域生活支援と呼ばれる領域がかつてそうだった。公的な制度が整うよりも前に、起業家が次々と現れ、オリジナルサービスを構築していった。地域的には偏在していたが、今よりも支援の内容は柔軟だったかもしれない。それでも、このままでいいと言う者は少なかった。起業家に「もっと安く」と怒る者よりも、行政に怒る者のほうが多かったのは、なぜだろうか。そして、大きく公的なサービスとしての制度化は進んだ。
 ほっておけば、市場に任せるべきか、公的なサービスとすべきか、も自然に決まっていく、ということでよいのだろうか。そりゃ、どこかには落ち着くのだろうが、その原理がわからない。自分たちは既存の公的サービスと関係づけての主張もできるが、現状では当事者による運動が衰えゆけば、これから新しく生まれるものの多くが市場へと向かっていくような気がしてならない。