泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

 昨日の日記で書いた件のイライラが先ほどからぶり返してまたイライラ。ダメな指導員たちの発言のひとつひとつが思い出される。気持ちを落ち着けないと床につく気にもなれない。
 一方で、4月から再三にわたって議論してきているのに、どうしてこんなにわかってもらえないのだろう、自分たちにできることがまだあったとすれば、何だったのだろうと反省もはじまっている(我ながら、こんなタイミングで反省なんかよせばいいのに)。少し反省しては、なんでこっちが反省しなきゃなんないんだ、と思い返し、の繰り返し。それに加えて、モチベーションの落ちたうちの加配指導員は年度末あたりに辞めると言い出すんじゃないか、という不安も入り混じって、どっと疲れる。自治体の予算難は厳しさを増し、来月末には次年度以降の制度設計について行政が親たちの意見を聞く場をセッティングしており、現在の仕組みがどうなるのかさえもわからない。制度そのものの安定すらないのに、人材まで流動的になったら、どうすればよいのか。
 その自治体との話し合いを控え、親たちはみんなそれぞれに想定を超えた動きをしている。自分に好き勝手な意見を言ってくる人もいるし、議員を動かす人も出てくるし、話を全然関係ない方へと飛躍させる人もいるし、もうしっちゃかめっちゃかである。そうはいっても、ひとりひとりの考えはまあわからないでもない。一番、予測できないのが「親の会」の意見。個々の親の考えを集約するだけでいいはずのに「会としての取りまとめが必要」と言って、ひとつの見解を出そうとする。議決についてのルールは、無い。会議に参加しやすい、よくしゃべる人たちが行政の意向までを想像して、なんとなく親の会として「こう言っておいたほうがいいのだろう」という意見というのが構成される。行政サイドはこの件について、財源論まで含めた議論を親たちに期待などしていないのだし、親組織の全国団体が自立支援法に賛成反対を表明するかのような政治的戦略など必要ないのに、自ら可能性の選択肢を狭めている。
 そもそも「親の会の意見」なんてものがあるはずない。ひとりひとりの子どもに合った個別のニーズがあるだけだ。今は「とりまとめ」をする努力よりも、その多様性を伝える努力をしなきゃいけないのに、自分にとって都合のいい意見を組織の意見にすり替えて主張しようとする親の多さときたら。ああ。
 明日は朝から他団体へのイベント協力で、託児のお手伝い。今は他所を手伝っている場合じゃないのだが。