泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

独り言メモ

 いつも読ませてもらっている複数のブログでの議論「姥捨山問題」について。
 何も自分の頭の中でまとまっておらず、トラックバック等をとばすのも少し気がひけるので、単なるメモ。
 自分の仕事の中では「できるのに、しない」人が自分から「できない」と言ってしまうことの問題より、「できない」人が周囲から「できるのに、しない」と思われて苦しむことのほうが多いような気がする。障害をもつ本人も家族も含めて。
 一方で、支援者として、この人は「できるのに、しない」と思うことも苦しい。「できない」と思ってしまったほうが楽なことは多い。支援者は代わりに「する」だけでよい。「できるのに、しない」人に対して、どうやったら「する」ようになるのか、ということを考えるのは、非常にエネルギーの要ることだ。同時に、すごく自分が傲慢にも思えてくる。「あなたはできるのに、しない」と言ってしまえば、相手を責めることとなる。たとえそれを口に出さなくとも、「できるはずだ」という支援者の思い込みは、ときに強いプレッシャーとなり、相手を追い込む。その結果として、周囲の期待に相手が応えられるかどうかは、きっと誰にもわからない。「できる」か「できない」かは、固定したものでもない。以前はできたが、今はできないこともある。その逆もある。「できる」か「できない」かを、支援者ひとりの力でコントロールすることなんてできない。
 本人のもっている潜在的な力を信じようとする良心的な支援者から、何事も自分でできるのがよいことだ、まわりの人間と同じようにできるのがよいことだと強く信じて疑わない支援者まで、きっと「この人はできるのに、しない」とまずは考えたいだろう。しかし、状況を見るうちに、「できない」と思えば、イメージしていた目標は修正されるだろう。「そこまではどうやらできないようだ。それでも、ここまではできるはずなのに、しない」と。これはすごく自然な流れだと思う。
 と、書いてはみたものの、全く的を外している気がしてきたので、やめる。たぶん、こんな話じゃない。残念ながら、論点が自分の頭ではよくわからない。