泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「小さな政府」の逆機能?

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070201
 ここ最近のdojinさんのブログにはすごく勢いがあって、とても考えさせられる。
 階層とか格差にまつわる議論について自分には大した知識もないので、うんと慎重に書かねばならないけれど、次第に自分が「下流」社会とやらの当事者であるということが実感されるようになってきた。30歳で年収150万。今頃気づく方がどうかしているのかもしれない。
 独身で狭いアパートに暮らしている生活の中身そのものは学生の頃からほとんど変わっていない。昔と何も変わっていないからこそ、さほど苦痛を感じることはなかった。金が無くて生活が苦しいとまでは今でも思っていない。日々の生活はなんとかなる。同世代との比較がなければ、自分の貧しさを感じることもなかっただろう。送られてくる年賀状に家族が写ったものも多くなった。実家に帰ると、親が結婚はしないのかとも言う。30歳というのは、きっとそういう年齢であるに違いない。
 「悪くなっていない」ことに安心していられる時期が長く続くうちに、自ずと「良くなっていない」ことに焦り始める時期も来るのだろう。今の自分はそのような時期にさしかかっているように思える。この閉塞感はきっと社会的にもたらされている。しかし、だからと言って世間の方を見るなと言われても無理な話だ。自分は社会の中で生きている。加えて、経営者のはしくれでもある。雇用しているスタッフのことまで考えれば、個人の問題ということにも収めきれない。
 この責任をどこかに問えるとよいが、どこに問うべきなのか。障害者支援は公共的な仕事には属する(公共的ってどういう意味だという議論はひとまず深く追及しないでおく)。公費をもっと投入してもらわなければいけないと主張することはいつでも皆がやっている。しかし、うちは民間の事業所だ。「だから」工夫して稼げばよいではないかとか、効率的な運営ができるはずだと言われる。これは間違いではない。間違いではないが、可能性の範囲でしかないと愚痴りたくなる。されど、可能性でしかないことは、民間ならどこでも同じだ。だから結局、運営の手腕がないほうが悪いと言われることに変わりはなくなる。
 それでも、決定的に違う点がある。我々のやっている仕事が公共的である以上、決して「つぶれる」ことも許されない。「再チャレンジ」などできる立場にないのである。今の「チャレンジ」をどれだけ失敗しても、そのまま永久に失敗し続けるしかない仕事はたくさんある。敗者の烙印を押されれば敗者復活戦にも望めるが、決して烙印を押してはもらえない。その意味では、生殺し。もちろん個人として敗者を宣言して降りられる者はいるだろうが、組織としてはそうもいかない。
 いっそ自分たちはNPOなんかではなく、行政の手足になりますと言ってみたらどうなのだろうか。外郭団体にでもしてくださいと頼んでみたらどうだろうか。それを忌み嫌い、そのムダを誰よりもよく知る人々が作ってきたNPOであるはずなのに、こんなことを空想させられる事態にまで追い込まれるのだとしたら、「小さな政府」を標榜する人々にとって、むしろ最も望ましくなく、避けたいと考えてきた状況がここに生じようとしているのではないか。
 とあるところから、障害者支援というより「雇用」について考えるきっかけをいただいたので、考えてみようとしたら、こんな話になってしまった。非正規雇用について、要勉強。そもそも「正規」と「非正規」の区別もよくわからないし。