泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[近況]新年に向けて

 休みではあるのだが、少しだけ出勤して、事務作業。事務所に誰が訪れてくることもないし、仕事がはかどる。先ほど帰宅。
 昨年の今頃の日記など読み返してみると、まだまだ精神的にも肉体的にも余裕があったのだなという気がする。今年はとにかく追い詰められた。来年もどうなるのかわからない。ただ、追い詰められ続けた末に、だんだんその状況に慣れてきた部分もある。たぶん、こんなものなのだと。
 追い詰められる要因はもっぱら金のこととスタッフ確保のこと。支援の内容のことで悩むと妙にほっとするというか、我を取り戻せる感じがする。相談できる相手だってたくさんいるし、人間の奥深さを楽しむこともできる。金の話を楽しめる人はきっと特別な才覚のある人なのだろう。仕事の重要性をいうためのデータをそろえることで金が集まってくるなら、その仕事は楽しいかもしれない。しかし、現実はそうでもなく、自分には手の届かない財源論にほとんどが終始する。少なくともこのあたりの地域ではそうである。国の中央でどうなのかは、よくわからない。おそらく大差はないのだろう。社会政策にとっての社会福祉研究の無力さは痛感している。
 仕事は目の前にいる人々を支えようとする動機づけがある限り続けられる。一方で研究はどうしようか。あるべき社会や望ましい生活を規範的に語りたい欲求はある。しかし、それだけを語り続ける者に向けられる視線の冷たさも感じている。何を理想と思い何を現実と思うか、何を正しいと思い何を誤りと思うかは、多くが相対的なものでしかないはずなのに、権力を持つ者や権力に近い者によって妥当とされる線引きがなされ、その線引きに従わない者が現実を見ようとしない者、現実を知らない者として排除される。そんな光景をたくさん見てきた。ひとたび排除されれば、簡単には戻れない。あとは何を言っても、負け犬の遠吠え扱い。
 それに耐えられる強さがきっと必要なのだろう。そして、誰かの線引きの恣意性を暴きつつ、新たな線引きの支持者を獲得していくための狡猾さも必要だろう。おそらくこれから悩むのはそんな仕事ぶりに自分がなじめるのかどうか。そして、なじめない人間の居場所はどこに?
 書いているうちに年が明けた。新しい年もどうぞよろしくお願いします。明日から三が日は帰省。