泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[研究?]今後の障害者政策のために

 たまには、仕事以外のことも。とはいえ、もちろん仕事とも関連する。
 後藤玲子「正義と公共的相互性 ー公的扶助の根拠ー」『思想』2006.3,92-99.
 センの潜在能力アプローチによって母子世帯への生活保護削減の動きを考察した論文。日本の具体的な社会福祉政策事例の分析にセンのアプローチをわかりやすくあてはめた研究を自分としてははじめて見た(ものすごく自分はセンやら厚生経済学やらに不勉強なので、ひょっとしたら他にも研究成果がわんさかあるのかもしれないが)。
 近年(ここ3年ぐらい)の障害者福祉政策では行政サイドからサービス支給・利用の「過剰」あるいは「モラルハザード」が叫ばれたりもして、サービス抑制の根拠に使われた感もあった。自分も障害をもつ子ども相手の仕事をしていく中で、ある部分において「健常児」以上に多くのものが享受できるサービスを提供してきたと思える部分もたしかに一部にある。しかし、それが過剰であったかと言われれば、違和感は残る。
 生活と生活を比較するのは難しい。後藤論文では「ディーセントな生活機能」「社会活動・将来設計機能」のふたつに着目して、生活保護受給世帯と非受給世帯を比較しているが、知的障害をもつ人々やその家族の生活と「健常者」の生活を比較するには、より複雑な指標が必要にも思える。それでも、単純に所得の多寡や心身の障害程度ばかりが(いくら「勘案事項」があるとはいえ)サービス利用の目安とされる制度設計がどんどん強化されていく動きに異を唱えようとすれば、やはり機能のメニューを知的障害当事者の生活と関連づけて示す作業が必要であるように思えてならない。
 最近、生活構造論関係の文献を読んだりしていたら、生活をこまごまと分析しようとした人はこれまでにもたくさんいたようだし、ソーシャルワークでいうところのエコ・システム論なども見方を変えれば潜在能力アプローチと関連づけられそうだし、使えるものはたくさんありそうなのに使われたことがないのは、なぜだろうか。知的障害者分野での政策提言を目的とした研究って、当事者の生活実態を明らかにして「健常者よりも大変だ」というところでとどまってしまっている気がする。現実の政策過程では、それでも有効な場面がたくさんあったのかもしれないが、そろそろ次のステップに移らないと単純にサービスの種類だけが出そろったところで停滞してしまうのではないか。
 ああ、明日のために寝なければ。