泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[読書]システムと人格

情況 2006年 02月号

情況 2006年 02月号

金田智之「公共性の(不)可能性をめぐって」。

 ・・・システムにとって「人間」とはコミュニケーションの接続に付随して、そのコミュニケーションが行なわれる際に立ち現れる環境要因であり、それら「人間」の「人格」というものを設定し、そこへとコミュニケーションにおけるエラーを帰属する(これを人格帰属と呼ぶ。たとえばシステム内のコミュニケーションにエラーが生じた際、その原因を個別の人間の人格性――たとえば個人の「不真面目さ」「愚かさ」といった「資質」――へと帰属することにより、そのエラーの処理を行なうことになる)ことにより、システムはシステム内部での違背や誤りを処理することができ、コミュニケーションを滞りなく持続していくことが可能となる。ただし、ここで注意しなくてはならないのはこの事態を「システムが人間を疎外している」ないしは「システムが人間的な生活世界を植民地化している」と受け取ってはならない。(中略)・・・システム内のコミュニケーションにおいて個別の人間の「人格」は違背処理を行なうためには常に必要とされるものなのであって、そのためにも「人格」はあらゆる点で保護され擁護されなくてはならない対象となるのだ。これは逆説的な事態ではあるが、憲法上の基本権が持つ社会的な意味という点についても、この観点から十分に考えることができる。(中略)・・・「人間」はシステムによって疎外されるどころか、逆にその人格性を丸ごとシステムによって包摂されるに至ることになる。(98ページ)

 ・・・人びとの人格化、言い換えれば個人化においては、世界への関心もまた差異化による人格性の表出の一つとなり、世界に対していかに記述を行なうのかということが競われるようになる。(中略)
 アーレントは、世界は私的な所有には収まりきらないがゆえに公的なものに位置付けることができる、と述べている。しかしそのことと、共通世界への関心を皆が持つという事態が公共性を担うということは直ちには結びつかないだろう。むしろ、そのような「共通世界への関心」の強調は、複雑に差異化する大衆社会においては、一種の強制的な規範的命題として脅迫的に響くことさえあるかもしれないのだ。(105ページ)

 現在流通している「公共性」に関わる言説は、基本的に「市民社会」や、あるいは「世界」といった、「愛」の関係性を超え出る範囲での「公共性」の創出を訴えるものが多いと思われる。しかしながら、そのような範囲の「現われの空間」としての「公共性」を実現しようと思うのならば、そこには現在一般的に用いられている「愛」のメディアを上回るような、より統合力の強いコミュニケーション・メディアが要請されるのではないだろうか。そして、そのように強大なコミュニケーション・メディアが人びとに受容される過程において、何かしかの強制力や暴力が働かないという保障はない。(中略)
 ・・・「公共性」という概念の可能性を探るのであれば、そこでは「愛」のコミュニケーションを「私的」なものとして切り捨て、「親密圏」として「公共圏」から区別することなく、その関係性における「公共性」を承認していくことが重要になるだろう。(106ページ)

 自分が「システム」と「人格」の関係について誤解していたことがわかった。「違背処理」ということだったのか。収穫。でも「愛のメディア」がぴんとこない。友達関係とかも「愛」?