泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[読書]健常者学?

そだちの科学 5号―こころの科学 特集:アスペルガー症候群

そだちの科学 5号―こころの科学 特集:アスペルガー症候群

 同誌所収、ニキ・リンコ「NT学のすすめ ―的外れな苦労を増やさないために」(64〜69ページ)を読む。示唆に富んでいる。

NT(neurotypical)=ありがちな神経系を具えている人々、神経学的に見て多数派である人々。

 ニキさん自身が広範性発達障害をもつ著述家であり、その人からいわゆる「健常者」に別の名前が与えられたことの意義は大きいと思うのである(イコールではないのだろうが)。

 PDD(※広範性発達障害)の世界とNTの世界を、不完全にでもよいから両方見なくては、NTのみなさんにPDDの世界を説明することはできない。(中略)東北地方に「三春」という地名がある。その由来は「梅と桃と桜が一度に咲き、3つの春が一度に味わえるから」という説があるが、もし本当なら、外から来た人か、帰ってきた人の命名ではなかろうか。一度も南の国を見たことのない人なら、「よそでは梅と桃と桜が別々に咲く」とは知らないのだから、「三つの花が一度に楽しめることが自慢になる」と気づくことはできない。

 見えないものを見えない、わからないものをわからないと言ったからといって、沽券にかかわるとは考えない。車庫に車を入れるときに、自分で見られない反対側を助手席の人に見てもらうことが屈辱でないなら、自分の認知機能の穴ゆえに見えないことを見えないと言うのも屈辱ではないという理屈である。

 視野の狭いPDD児・者にとっては、地域限定ルールが地域限定ルールであること、下位文化(部分文化)が下位文化でしかないことに気づくのも容易な課題ではない。そんな当事者が強さ・タフさを競い合う下位文化を背景とする発言にたまたま接した場合、発言者本人は、非常時には「強さ自慢」など棚上げにする選択肢をもっているのに、聞いた側は限度を知らずに遵守してしまうことにもなりかねない。

 以前から知的障害をもつ人が自分の世界をしっかりと持つ一方で、ある側面において「社会化」されやすいことを感じていて、どう表現したらよいだろうかと思っていた。こんな説明の仕方もよいかもしれない。

 中身がわからなくて困惑している私たちから見れば解明の利益は大きいが、ブラックボックス(※NTの人々がわざわざ言語的に説明しようとはしないこと、あるいは説明できないこと)のまま便利に処理できている人にはさほどの利益はないのだから、説明したいという意欲がわかなくて当然だ。動機の切実さが違う以上、「怠惰」と笑うのは的外れだろう。
 ただし、この種のブラックボックスの中身や仕組みに知的に好奇心を持っている人々もいる。彼らは、たとえ私たちほど切実に困ってはいなくても、「楽しさ」が報酬となって、調べたり、考えたり、同好の士の報告に耳を傾けたりしている。認知科学言語学、生物学、歴史学科学史などはもちろん、確率や統計、喜劇や漫画に至るまで、たとえ動機は(完全には)一致しなくとも、その果実は共通の言葉で語られるのだから、私たちもおコボレにあずかることはできる。人間の大多数はNTだから、人間の営みに光を当てる学問や、直観の不完全さを補整しようとする手法は、どれもNT学として応用できる望みがある。

 発達障害の人が自分たちが生きていくうえでの不便を緩和させるために、既存の学問成果を実践へと架橋する「NT学」を提案しているのだと言い換えたらどうだろうか。「認知科学言語学…」と列挙された諸学のおコボレにあずかったとしても、それはそれらの学問研究とは明確に違う目的を持っているのだから、おコボレにあずかる作業を方法論として確立させられれば、それは独立した学問として分出してくるのではないか。「なぜNTの社会はこうなのか?」「なぜNTはこう考えるのか?」。それは障害学ともまた異なるだろう。古くからある言葉を活用すれば、「健常者学」の可能性を示しているかもしれない。何度も書いてきたことだが、身体障害者による研究の活発さと比べると、他の障害分野では当事者による研究があまり進んでこなかった。今後に期待。