泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[日誌][障害者支援]地域

 地元の祭りに職員とボランティアスタッフ16名で出店、参加。たくさんある店の中にまぎれて、あまり地域へのアピールにはなっていない気がするけれど、ちょっとした活動資金は稼げた。
 地域地域と福祉業界は連呼してきたけれど、実際のところ「地域」に期待されているものは判然としない。「地域から排除される」ことに抗うのは当たり前としても、「地域に包摂される」「地域に支えられる」となると、なんだかわからなくなる。障害者福祉において「地域」の対義語は長らく「施設」だった。今でもそうかもしれない。これは地域という「空間」を重視する。
 しかし、単に生活の場がアパートやグループホームや居宅に移ることをノーマライゼーションなんて言えるはずもない。そこで生活の「ノーマルさ」を示す諸基準が設定されることになる。その基準の中に何を含めるかについて一致した見解はない。ただ、選択肢の豊かさが重視される傾向はあるのだろう。「あれか、これか」を迫られる状態は、好ましくないとされる。就労の場であろうと、休日の過ごし方であろうと、食事の時間であろうと選べるほうがよいと言われる。
 ここで、地域福祉論に目を移せば、生活環境の改善やネットワーク、福祉サービスなど多くのものが「地域福祉」を構成することになっている。これらはまさに選択肢を増やすための条件であると言えなくもない(それらの条件自体が選択されることもあるだろうが)。しかし、物的環境や制度的環境と比べると、人的環境が選択肢を増やすことに寄与する可能性はあまり重視されてこなかった。「福祉教育・ボランティア教育(学習)」なんて呼ばれるものが教科書で幅をとりはじめたのには、誰かの政治的な思惑もさることながら、こうした背景もあったかもしれない*1
 多くの地域福祉論は、地域に生きる多様な属性の人々を「住民」としてひと括りにして、その関係性の非対称性を理論に組み込んではこなかったように思う。それは住民個人の変革と社会の変革を同時に追及しようとして「住民参加」「主体形成」から更には「地方自治」の重要性へと言及し、「地域福祉計画」が重要だという話に至る。だから、社協職員などはともかくとして、多くの福祉関係者にとって地域福祉論は観念的で退屈に映る。
 さて、障害をもつ人々が地域住民と結ぶべき関係とは、消極的に「排除されない(しない)」以上のものであろうか。積極的に結ぶべき関係があるだろうか。と、問題提起だけして、寝る。簡単に答えなんて出るものでもないし。

*1:今、部屋に地域福祉論関係の本が一冊もないので、こうした整理に全く自信も確信もない。