泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

契約

 続く契約手続き。児童の契約はほとんど終わったが、まだ成人の方の契約が残っている。契約書を前に第1条から説明していくわけだが、なんだか形式的でつまらない(この手続きが面白くあるべき必要もないわけだが)。自分のアパートの契約時に、不動産屋のにいちゃんがすごいスピードで契約書を読み上げていったのを思い出す。契約書と重要事項説明書のそれぞれ2通ずつに住所名前を書いてもらうだけでもすごい時間がかかる。説明にかかる時間と、記入にかかる時間が大差ない。なんとなくお互いに「面倒だし、早く終わらせたい…」という雰囲気が出ている。
 契約書に書いてあるのは当たり前といえば当たり前のことばかりで、あまり新鮮味もない。契約制度になったから措置の時代と比べてサービスの質があがったという話も聞かない。サービスを利用する権利性が高まったとも言われるけれど、多くの利用者にとって「対等」な契約なんていうのは欺瞞としか思えないだろう。
 来年の4月になって利用者負担額があがると、それだけサービスの質に対してシビアになる可能性はあるが、負担が大きくならないとサービスに対して物申せないということになると、これは利用者に対して政策的に経済的負担を求める口実にされてしまう。有償ボランティアをめぐっても支援費制度をめぐっても同じような議論はあった。「有償だからこそ、対等になれるのだ」と。しかし、有償でなければ対等になれないのだとしたら、それは権利ではない。
 サービスに対して極めて少ない対価しか支払わない(あるいは全く支払わない)ときでも堂々と物申せることこそが「権利」なのだろうが、サービスが安価だった時代に権利が主張できたかといえば、全く逆であったわけで、事態は複雑である。ありがちな議論かもしれないが、利用者にとってサービスの利用が恩恵としてではなく権利として実感できるようになるには、どんな条件が必要なのか。
 選択肢が増えること? どうもそんな単純な話ではなさそうな気がする。問題を個人の心理に還元するつもりはないが、たとえ相手が「仕事」としてサービス提供をしていると知っていても、実際のところ「自分のために特定の人間が長時間にわたって支援を行う」ということの心理的な負担感は、相当なものに違いない。その負担感を軽減させるために現場レベルで何ができるかということも議論していかないと、どんなシステムにおいても、ある種の利用者は申し訳なさそうにサービスを使っていくように思えてならない。