泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ロボット是か非か

 先週土曜の19時から22時まで放映されたNHK教育のETVワイド「こんな『介護者』が欲しい」について。
 全体に新しい論点やテーマが提示されているわけではなかったと思う。自立支援法についての議論は、さんざん聞いてきた話だった。谷口明広さんは100%敵対視されるのが予想できていただろうに、よく出てきたものだと思う。自分が面識のある数少ない「有名人」であるので、なんだか複雑な思いではあった。
 中盤は、ヘルパー・介護者の経験談に障害者が応答する形で議論が進むわけだが、どうも序盤は話がかみ合っていない様子に見えた(まだ若い介護者がそれぞれの経験してきたことを十分に言葉にできていないことが原因であるようにも見えた)。介護者が障害者の「甘え」「わがまま」を感じた経験を口にしたことに対して、障害者サイドからの反論多数。そこで、障害者の望む介護を十分にできなかった介護者が「この仕事にむいてない」「ごきぶり」「なめくじ」など暴言を吐かれて泣きながら帰ってきた、という事例をソーシャルワーカーの人が持ち出し、お互いの人間としての尊厳を認めること、「人間」対「人間」の関係を築くことの必要を提起。その発言に対して「心ある手足」を望む人が肯定的意見を述べたあたりから、介護における「関係性」のあるべき姿とその築き方に論点が集約されていく。
 そこで人工呼吸器をつけながら自立生活をしている人から「手足論」=「介護者の意思は働かせないほうがいい」という考え方が出され、介護者サイドからは介護者の「手足」にとどまらない機能が主張される。しかし、その機能こそが「介護者の意思」によるものではないかと江川紹子氏が指摘。介護者側からは「人間性を否定されているような気もする」など戸惑いの声。「手足+友人」のような介護者になれれば、などという意見も出される。「心ある手足」なんて言い方もあった。結局、最終的には「パターナリスティックな介護はごめんだ」「生活の主体は私だ」というような穏当な結論でまとまっていった印象であった。
 この後、青い芝の会登場、ということになるのだが、ここから先は録画をしてまだ見ていない。以下は、ここまでを見て思ったこと。
 自分は学生のときは重症心身障害者の支援と知的障害児の支援をボランティアで行い、現在は仕事として知的障害児支援を中心に行っているわけだけれど、今のところ「介護(介助)者に求める機能はひとりひとり違う」ゆえに「築かれる関係もそれぞれ違う」というすごく平凡で当たり前の結論しかないのだろうと思っている。
 自分は介護者=手足論を基本的に支持するが、それは「介護」概念を、誰かの行為を補助したり、代行したりするものとしてのみ定義する限りにおいて、である。こう定義すると、もはや定義の中に「手足」の意味が含まれてしまって意味がなくなるように思われるかもしれない。にもかかわらず、こんな条件づけにも意義があるんじゃないかと考えるのは、障害をもつ人々それぞれの生活上のニーズがそのまま「介護ニーズ」であるかのように考えられてしまいやすいがゆえに、介護(者)の定義も拡大されやすいからだ。自分自身、ずいぶん昔に大学の卒業論文でこの誤りを犯した。「人間関係ニーズ」を「介護ニーズ」に含んで論じてしまった。
 「介護ロボットで満足できるか」と聞かれて「満足できない」という答えがあったときに、それは「ロボットが必要ない」ということを意味しない。「ロボットはロボットとして必要だが、それ以外に必要なものがある」という選択肢もありうる。支援が機能分化していけば、介護ロボットは定められた機能のみを果たすようになるだろうし、障害者をとりまくロボットにもさまざまな機能をもつものが現れるだろう(「相談援助ロボット」とか「権利擁護ロボット」とかを考えたってよい)。もちろんそこでロボットばかりとの関係性に耐えられない人も出てくる(「生活はたしかに支えられているが、心を通い合わせる友達が全然いない」とか)。そのときはロボットではない者との関係を求めていけばよい*1
 ただ、それでも現状として、介護システムが十分に確立されるまでの間(場合によってはシステムが確立された以降であっても)、介護者との関係は貴重な人間関係ともなりうるから、障害者から「人間対人間」の関係を求めたいという声があがったりするのも自然なことである。この機能は本来的には介護から切り離されるべきとは考えるが、そこまでの機能分化が進んだ時代には至れていない。だからといって、介護者の側から単なる「手足」ではない関係でやっていきたい、言いたいことをお互いに言える関係がいい、と言ってしまえば、それは本来の介護機能と対立するおそれが出てくる。だから、関係性については介護者の側から規定すべきものではない。障害者の側から望まれる関係性が表明されたときに、考えることではないか*2
 介護者側の苦労もわかるので、少しは弁護もしたい。番組中にもあったように罵倒されることだってあるだろうし、そのような罵倒によってヘルパーが次々と辞めていくのはつらい(というか内容によってはひどく腹が立つ)ことである。これを介護以外のサービス業と比較して、「罵倒されたって、お客様には笑顔でいるのが当たり前」と言われるのも一理はある。しかし、日常的な介護の中で繰り返し同じ利用者からひどい言葉を浴びせかけられる負担感は、ほかの仕事と同列ではないかもしれない。ビジネスであれば、理不尽なクレーマーに対してクレーム担当者を置いたり、上司がここぞというタイミングで頭を下げることで済むことが、この仕事では済まされないかもしれない(もちろんこれは自己決定の侵害とか介護技術の極端な不足などに基づかない「理不尽」なクレームについて言っている)。
 関係性の非対称性や介護者のもつ権力性はしばしば言われるが、誠実な事業所であったり、他の資源がない地域の事業所ならば「自分たちが支援を止めれば、この人の生活はどうなる」と考えて、どんなに苦しくても、どれほど罵倒されても介護に入り続けようとするだろう。そうした事例は決して多くはないが、あちこちにあるものだ。そんな事例を強調することは、障害者福祉全体の進展にとって大きな意味を持たないかもしれないが、特定の現場にとっては深刻でもある。
 介護技術について言えば、番組中でも少し話題になっていたように、ヘルパーが「育つ」までの間をどうするか、というのも大きなポイントになるのだが、今日はもう余力がない。寝る。

*1:ただし、知的障害をもつ人の場合、関係性をシステムの中の「役割」に基づいて区別するのが困難な場合も多いし、支援特性もずいぶん違うので(それを身体障害者と同じ「介護」「介助」と呼ぶのもあまり適切ではないんじゃないかと思っている)、また違った論じ方も必要だろう。

*2:ボランティアを含めて介護者を考えると、議論はさらに複雑になるが、それには触れない。