泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

政策を規定するもの

 序章、第1章。

 本章の主要論点は、以下の通りである。
 政策主体としての国家は、社会過程の中に還元されうるものではないが、その能力は経済状況、国家―社会関係に左右される性質のものであり、したがって国家の自律性は、経験的に問われるべき問題である。より厳密にいえば、民主主義体制においては、国家が社会全体と決定的に対立する政策に固執するという事態は極めて稀であり、問題となるのは実は所与の国家―社会関係、政策ネットワークと適合的な政策を選択する国家の能力であり、役割であって、国家が社会に抗して自立的な否かという問題はさほど重要性を持たないように思われる。
 社会政策・福祉国家の発展は、まず経済的要因に大きく規定される。経済が成長するにつれ、そして経済が開放的であるほど、公的福祉は発展する傾向がある。経済の成長に伴って、国家は市場を規制し資本主義社会を正当化する役割を増大させる。経済が開放的であれば、国家は国際的競争力を向上させるため、公的福祉の拡充を通じて社会的調和・労資強調を図る必要性が高くなる。こうした経済的要因は、政治的要因によって媒介される。従来、左翼政党や右翼政党といった政治的党派性が、福祉国家の発展を左右する要因として指摘されてきた。しかし政治的要因として最も重要なのは、労働権力である。労働が強力な組織基盤を背景に、資本に対抗しうる政治的影響力を獲得し、統治連合の形成に成功すれば、制度的福祉国家が実現される可能性が高くなる。そしてこうした国家―社会関係のなかでは、経済危機を克服する手段として、社会民主主義戦略が有力となる。つまり経済危機に際して、福祉反動が生じる可能性は小さい。しかし組織労働が脆弱であり、左翼の政治的影響力の小さなところでは、資本の利害がより直接的に国家政策に反映する保守的統治連合が形成されている可能性が高く、したがって公的福祉の発展度は低い残滓的であり、職域・企業福祉が重視される傾向がある。残滓的福祉国家においては、経済危機に際して、市場の柔軟性を回復・維持・拡大する戦略(新自由主義―デュアリズム戦略)が有力となる。(44−45ページ)

 自分みたいな社会政策をまともに勉強していないものにとっては、このあたりの「経済的要因」や「労働権力」の影響の大きさが、いまひとつ経験的な実感としてピンと来ないところである。社会政策、社会保障一般で言えば、間違いなくそうなのだろう。多くの国際比較研究もそれを裏付けている。
 しかし、個人の生活レベルで言えば、たとえばサービスひとつの有無が決定的に生活を激変させる。そして、そうした政策全体としては微細だが特定少数の者にとっては重大な変更というのは、もっと短期的でプラグマティックな考えのもとに行われているように思える。著者は、国家内過程を「組織的個人的目標に沿って行動する高級官僚や政治家の間の交渉・相互作用の結果として生ずるのであって、国家という統一的アクターの合理的選択とは考えられない(22ページ)」と述べるが、これに各種運動団体の表や裏での実にさまざまな動きが加わって、特定のサービスが実現したり無くなったりしているというのが、ここ数年の動きであるように思う。先日も毎日新聞の野沢さんの「バブル経済のときも、何も障害者によいことなどなかった(大意)」という文章を引用したような気がするが、なぜ支援費制度があのタイミングでスタートしたのか、なぜ新自由主義政党に属していた八代英太衛藤晟一が落選したことに一部の障害者福祉関係者が強い不安を感じているか、ということを考えれば、障害者福祉の進展が国家の経済状況や政治的要因と相関しているというのは、不自然だろう。
 運動の立場からすれば、大局的で長期的な見地に立つよりも、目の前のちょっとした(しかし、自分にとっては決して些細ではない)変更点にどう抗うか、あるいは変更点を作り出すか、ということも重要なポイントに違いないのだが、いわばドロドロとした運動過程・政策過程を研究することは可能性として現実的ではないし、その成果もあまり実践には活かせないだろうか。