泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

管理・被管理・排除

ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会

ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会

 読了。最後までわかりやすかったのだけれど、

 管理社会において自由が可能になるのは、管理が消滅するからではない。むしろ、管理社会の深層に光を当て、人々に隠された管理社会の構造を顕在化することによって、「管理社会における自由が可能になるのだ。(中略)したがって、管理からの「逃避」ではなく、隠蔽された管理の解読こそが、何よりも必要なのだ。(206ページ)

 というのが、結論だとすると、これまで多くの学者や運動家が試みてきたことと何ら変わりがないようにも思える。4章でドゥルーズフーコーも有効な管理社会への実践的な対抗策を示せていないことを示しておきながら、この結論に収まってしまうのは、問題の難しさのためだろうか。
 終章で筆者は管理の3つの技法として、超越論的管理としての「コード化」、経験的管理としての「監視」、論理的管理としての「排除」の3つをあげ、これらによって「人間」の差異化が進行するのだと言う。管理するヒト、管理されるヒト、排除されるヒト。自分自身がどのヒトにもなりうるだろう。そんなことを実感しやすい仕事に自分は従事している。
 法制度のもとにあらかじめ定めされたサービスのみを提供しながら、その中での「自由」を認めたふりをすることもできる。他人の生活の全体性を踏まえることが大切だと言い、生活の細部にまで介入することもできる。
 一方で、支援者として自由に振舞えるわけでもなく、どれだけの支援を行ってよいかさえもしばしば枠にはめられている。利用者のために為される「ケア」も監視の対象たりうるが、これはいつでも望ましい管理だろうか。ケアが監視の対象とすれば、監視の先で排除されるのは誰だろう。誰かのためにと為される監視が容易に管理に転化することこそが、ずっと指摘されてきたことのはずだ。ケアの監視は、目的さえ入れ替えてしまえば、いくらだって利用者や支援者の自由を奪うことができる。そんな中で多くの支援者は、支援者としての自由がないと感じているだろう。しかし、そこで気づかれた管理さえも、表面的なものに過ぎないかもしれない。
 そして、管理される支援になじめないものは、排除される。排除されるのは障害者に限った話ではない。支援者だって現場から排除されうる。そんなヒトは身近にあふれている。こうした排除は、もっぱら「この仕事に向いていない」とか「勝手に辞めていった」と、さも望ましく自発的な離脱であるかのように整理されていく。つまりは「自業自得」である。しかし、この構造は障害者が社会から組織から排除される構造と大きく違うのだろうか。
 だからこそ、障害をもつ人々あるいは支援者にとって、管理からのどんな抜け出し方がありうるのかを求めているのだが、結局この本で答えは見つからなかった。自由と管理の見取り図は描けたかもしれない。