泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ケア論

 上野千鶴子さんが、「ケアの社会学」というタイトルで連載を始めた。

クォータリー あっと 1号

クォータリー あっと 1号

 今号は「序章『ケアとは何か』」ということだが、中身は濃い。いずれ単著として出版されるだろう。社会福祉研究者の反応は見ものである。

 以上のような議論の経緯からすれば、ケアの概念定義それ自体には、それほどの意味はない。むしろ、ケアおよびケアワークの概念が文脈依存的であることが確認されればよい。その点では、本論の問いは、以下のように置き換えることができる。いかなる文脈のもとで、ある行為はケアになるのか? またいかなる文脈のもとで、ケアは労働となるのか?
 それは「不払い労働」論の過程で、フェミニストが立ててきた問いを反復することになる。たとえば家事とは何か、育児とは何か、あるいはセックスとは何か、という「本質主義的」な問いに代わって、フェミニストたちは、いかなる文脈(条件)のもとで家事、育児、そしてセックスは「愛の行為」となり、またいかなる文脈(条件)のもとで家事、育児、そしてセックスは労働となるのか?と問いを立ててきた。というのも、第一に、これらの人間的な諸活動は、愛から労働までのすべてのスペクトラムを現実に含むからであり、また第二に、これらの活動がいっぽうで「有償」で行われるからこそ、それとの対比に置いてはじめて、「無償の労働」が概念化されるからである。そして同じことはケアについても言える。(24ページ)

 序章の終わりに、デイリーらが依拠するケアへの基本的アプローチを、わたしもまた、採用することを明らかにしておこう。それはケアへの人権アプローチ human right approach to care というべきものである。それはケアを広く人権のうちの「社会権」の一部ととらえる見方である。
 人権 human rights とは、文字どおり「市民的諸権利の集合 a set of rights」を指す。そしてこの「諸権利の集合」の範囲は、歴史と社会の文脈によって変動する。わたしはここでも「人権」の歴史超越的アプローチを採用しない。「ケアの権利」とは、特定の歴史的文脈のもとで登場したものである、また特定の社会的条件のもとではじめて権利として成り立つ性格のものである。(25ページ)

 ケアへの人権アプローチによれば、ケアの権利とは以下の4つの権利の集合から成っている。
(1)ケアする権利
(2)ケアされる権利
(3)ケアすることを強制されない権利
(4)ケアされることを強制されない権利 (25ページ)

 本論が提示するのは、本質論から社会学へというシフトである。つまり、「ケアとは(その本質において)何か?」という問いに代わって、「いかなる文脈のもとにおいて、ケアとは何であるか?」と問いを置き換えることにある。(中略)ケアの本質論は、しばしば「ケアとは何であるべきか」という規範的アプローチをとる。というのも、もしケアとは「本質的」にXであり、現実のケアがYでしかなければ、YはXに合わせて否定されるなにものかになるからである。そしてこの種の規範的アプローチは、ケアの実践的・具体的内容について関心をもたない傾向がある。
 したがって本論の関心はそうでないアプローチ、すなわち次のようなものとなる。
(1)規範的アプローチから記述的(経験的)アプローチへ
(2)規範的アプローチそれ自体の文脈化(歴史化)
 以下は、日本語圏の文脈における哲学的・倫理学的アプローチを歴史化する試みと解してもらえばよい。(29〜30ページ)

 恥ずかしながら、「ケアする権利」も歴史的に獲得されてきたものだという認識がこれまで全くなかった。

 ちなみに「あっと」同号には、外国人看護・介護労働者についての丁寧なレポートが出ている。まだちゃんと読めていないが、引用されている文献・資料はあまり一般的に読まれているものではないものが多いようだし、貴重なレポートなのではないか。

 こんなに書くと、まるで太田出版かオルタートレードジャパンの回し者のようだ。