泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

規範と自己定義

アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか

アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか

 3章〜5章読了。
 4章。行為と規範の関係について、社会決定論(規範が優位)でもなく、主体主義(行為が優位)でもなく、行為者の行為選択と規範との間にある媒介項である「状況定義」に着目した「状況定義モデル」を提示。状況定義の選択を通じて、行為者が規範を変革させる可能性を見出す。

 行為と規範とのより正確な関係は、行為が規範を選択しなくなっていく過程、逆に逸脱行為が、「逸脱」ではなく、別の規範を前提とした行為として新しい意味を付与されていく過程、およびそうしたことが生じてくるための条件の分析によって明らかにされる。状況定義モデルは、行為の直接的な個別の意味以上の、普遍的な規範にかかわる相互作用を扱うことによって、こうした分析に貢献しうる可能性をもつ。(128ページ)

 逸脱行為は、ただそれだけでは、他の規範への指示行為とはならない。「おい、お茶」と言われて、無視しただけでは、「女性はお茶を汲むべきだ」という規範への逸脱と受け取られるだけで、異なる規範を指示する行為とはみられない。異なる規範への指示行為が成立するためには、他にもありうる選択肢へのまなざしが必要である。(128ページ) 

 5章では、状況定義を否定、剥奪されることが自己定義の喪失へとつながり、アイデンティティに強い影響を及ぼすことを指摘。継続的、全状況的にこうした事態が起こる場合として、カテゴリーによる状況定義の剥奪を述べ、障害者とピアカウンセリングの事例をあげる。ピアカウンセリングは自己定義、状況定義を自らおこなう力を取り戻す試みだという。
 社会構成主義的なソーシャルワーク理論に馴染んでいると、こうした話もそれほど珍しい視点ではないようにも思えるが、規範的パラダイム、解釈的パラダイムなどの理論を読み解きながらの丁寧な説明なので、理論上なぜこうした方法論が有効なのか、そしてどこに限界があるのかを考えるにはとても良い。7章あたりで物語論批判も登場するようなので、期待。
 それにしても、知的障害をもつ人々にとっての状況定義を考えるに、ある程度よりも重い障害をもつ場合、どうしてもこの状況定義能力に期待ができなくなる。彼ら彼女らにとっての自己定義ってどんなものなのだろう。障害者心理などを専門に勉強している人なら、知っているのかもしれないけれど。
 カテゴリーによる状況定義の剥奪を告発すれば、それは「差別」の告発ということになるのだろうけれど、それを知的障害者自身がするというイメージがかなり限定的にしか描けない。差別の定義は「成員のカテゴリー間の同一性にかかわる正当性の基準に基づいて告発された事象(19ページ)」とされているので、もちろん差別の告発は当事者でなくてもできるのだろうが、仮に第三者がそんな告発をして、知的障害者に対するまなざしを揺るがすような異なる状況定義がうまい具合に社会的に承認されたとしても、本人の自己定義にどのくらい影響を及ぼすのだろう。障害が軽い人をイメージすると絶大な影響があるように思える一方で、重度の人についてはピンとこない。自己定義がなければ生きていくのが難しいというのも、またひとつの規範に過ぎないんじゃないか。と書きつつも、このあたりは不勉強なので、あんまり自信はない。