泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

雑感

内田樹:勝者の非情・弱者の瀰漫
http://blog.tatsuru.com/archives/001227.php
 悲しいが、このとおりだと思う。多くの国民が「弱者を切り捨てる政治」「勝ち組政治」などのスローガンに対して、自分こそが弱者であり負け組だとは考えていなかっただろう。亀井静香が「弱者を守れ」と言うときの弱者とは誰だろうか。福島瑞穂が「負け組」というときの負け組とは誰だろうか。
 これほどまでにスティグマを伴う言葉を受け入れられるのは、自尊心をズタズタに引き裂かれたか、あるいはそれを逆手にとって武器にできるほどのタフさを持っているかのどちらかだろう。多くの国民に見えていたのは後者の姿だけだった。ゆえに、野党は「弱者」なんて言ってはいけなかったのだ。
 「弱者」という言葉を、実際にどのくらい使っていたかは問題じゃない。内田さんも括弧書きでしか書いていない。社会福祉の現場で働く者も、特定の人々を「弱者」と表現することは実際のところあまりない。このラベリングのおそろしさは、みんな知っている。それでも、他人を「対象化」して、固定的な役割関係のもとに置くことは日常的にする。人々が潜在的に対象化されることへの嫌悪感を持っているとすれば、投票は誰のためにすればよいか。みんな「自分が幸せになるための政治」ではなく「憎むべき者を不幸にするための政治」を志向した結果が、自民党の圧勝だったのかもしれない。ただ、憎むべき者の像は全く具体的に描けていないのだから、とばっちりは誰かが受けることになる。