泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

投票という自己決定

 仕事の合間に期日前投票に行ってきた。11日はたぶん行く時間がないため。
 そんな折に、創価学会員家族の軽度の知的障害者が、数多く投票に動員されている、という情報が入る。投票日当日に都合がつかなくなると困るから、という慎重さで期日前投票。「名前書くだけでいいから」と言われ、学会員がお迎えに来てくれることまであるらしい。むろん自公連立政権自立支援法を通そうとしているとか、当事者の負担が大きくなるとかいうことはよくわかっていない。しかし、「公明党」って書くことはできる。候補者の名前も書くことはできる。
 どうすればよいのだろう。情報さえわかりやすく提供されれば、政策の内容から候補者を選択することもできるだろう。それは誰がすべき仕事か、客観的な情報提供なんてできるのか、というのも難しい問題だけれど、その仕事を誰かが担えたとして、「自分で決める」ことが本当にできるだろうか。難しいに違いない。投票行動は、もはや理屈に基づくようなものではなく、「周囲の親しい人から頼まれるから投票する」ものになってしまっている。
 実際のところ、田舎の選挙なんてしがらみだらけで、自分の信念に基づいて投票することなんて、障害の有無に関わらず認められないことも多いのだろう。多くの創価学会員が政策を客観的に判断して公明党に投票しているとも思えないし、特別に知的障害だから、ということはないのかもしれない。にもかかわらず、このやりきれない気持ちはどこから来るものだろう。うまく言葉にならない。
 他にも選択肢があり、ひょっとしたらそちらのほうが望ましいかもしれないことを知った上で「これを選ばざるをえない」と選ぶことと、他の選択肢なんてあることさえ知らずに「これだ」と選ぶこと。前者のほうが当事者からすれば、つらいことのようにも思える。にもかかわらず、後者のほうにより強く問題を感じるのは、自分が多くの選択肢を持っているがゆえなのだろう。しかし、ここで自分のような選択肢を知る人間が「他にも選べるものがあるよ」と彼ら彼女らに示したとして、その上で選択したものならばその決定を尊重すべきとも単純に言えない気がするのは、なぜか。自己決定論の延長で、いろいろと思いつくことはあるが、夜がもう遅いから、寝る。少なくとも単純に決定する「能力」の問題とかでもないだろう。政治にまつわる「自己決定」というのは、日常の中での自己決定とは違うポイントがあるんじゃないか、というなんだか当たり前のような話。