泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

満足度

 精神的にまいっているが、何か書いたら気分転換になるだろうか、というわけで、「福祉サービス利用者の満足度調査」について。
http://d.hatena.ne.jp/grouch_k/20050826/p2
 「自己評価」「第三者評価」が先行する中で、「利用者」による評価は後回しにされてきた感がある。サービスの「市場化」が進み、顧客満足度なんて言葉までも福祉業界で聞かれるようになったにもかかわらず、利用者評価の方法論が確立されたという話は聞かない。「第三者」による評価より前に、利用者による評価手法が確立されなかったのは、予想だけど「どうやったらいいのか、みんなわからなかった」からではないかと思う。
 「良い生活」を満たす条件は何か。サービスに対する「客観的」な評価基準を作ろうとすれば、「自己決定」のような諸理念を実現させるために求められる支援過程が実現しているかどうかを問いつつも、その理念そのものの限界(「自己決定」であれば、「決定するための選択肢がない」「選択肢があるということそのものを知らない」「選択するための能力をもっていない」など)から利用者に不利益が生じないように、「よい食事とは」「よい生活リズムとは」「よい空間とは」「よい余暇とは」など生活の要素ごとの「望ましいあり方」を誰かが決めておくことになる。これは常にパターナリズムと背中合わせとなるが、「施設」のような事業者を評価する際には向いているのかもしれない。
 ところが「満足度」となると、純粋に言えば、第三者の評価に期待される「客観性」など知ったことではなくなる。今の暮らしに満足していると本人が言えば、満足しているのである。どれだけ第三者から見てひどい環境であっても満足度が高いことはあるだろうし、その逆もありうる。「それではまずい」と言って、また「望ましい生活」を誰かが決めてしまえば、結果として第三者評価と同じようなものになってしまう。では、どうすればいいか。
 自分自身の考えを言えば、理論的な表現ではないが、それぞれの利用者が思う「これだけはゆずれない」という主観をどれだけ評価(調査)の中に反映させられるか、ということが満足度調査の要ではないかと思う*1。この場合、すべての評価(調査)項目に同じだけの価値が与えられることはないし、満足度の全体を部分の総和として理解してはいけない。思い切って言えば、どの項目にどれだけの価値を与えるかを、利用者それぞれが決めてもよいかもしれない。
 もっとも、この結果として特定の事業者のサービスに対する総合的評価が出されたとして、それは利用者以外の者にとって納得のいくものかどうかはわからない*2(まあ、第三者評価だって、それは言えるわけだけれど)。特定の商品やサービスではなく、福祉的支援のような「生活全体」のサポートに対する「満足」というのは、第三者から見れば理不尽なことも多い。「ゆずれないもの」は、明日にも変わるかもしれないし、社会的には認められないことかもしれない。分野やサービス内容にもよるが、多くの場合「お客様は神様」ではなかろう。利用者全体からのサービス満足度がはじき出されても、個別性の高い満足度を単純に合計したものに意味があるかどうかもわからない。ケアマネジメントやソーシャルワークのプロセスにおける「評価」のように個別になされないと、リアリティやオリジナリティがなくなるように思う。
 つらつらと思いつく前に書いたが、やっぱり気分転換にはならないようだ。どうやって気持ちよく眠りに入ったらよいか。うーん。

*1:grouchさんの表現を使えば、「期待感」の高い要素の「感想」とのギャップに特に注目することにオリジナリティをもたせる、ということになろうか。ただし「期待感」と言ってしまうと「あきらめ」が大きい場合、サービスの水準が低くても満足度が不当に高いということが生じうるから、何らかの歯止めというか、サービスの客観的水準も併せ見る指標はいると思う。

*2:もっと言えば「総合」してしまえば、個々の利用者にとっても納得のいくものかどうかはわからない。