泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

いろいろ

 福祉課に行き、「障害者自立支援法廃案になったけど、大丈夫か」と話を聞く。担当者は「今年度の予算は当然、国がなんとかしてくれると思っている」とコメント。今年は税収も良いし、自己負担増で見込んでいた額も全体から考えれば少ないだろう、とも。力強く「こんなことで『サービスをあまり使うな』なんていうことは絶対にない」と言ってくれる自治体はすばらしい(次年度のことはよくわからないけど)。
 さらには「支援費のサービスで対応できない部分をどうしたらいいか」について、宣伝に来たらしい他団体のチラシを持ってきて、「こんなやり方もある」など提案。行政が民間の事業者に私的契約のサービス提供のやり方について助言をするというのもすごい話だが、「ボランティアで仕事をする部分が増えて事業者につぶれられては困るし、自分たちはボランティアでも動くことができないので」というのもすごい。
 しかし、その他団体のチラシがとても不思議で、どうも高齢者・障害者を問わず、余暇支援的な外出をやっているようなのだが、支援費上のガイドヘルプをやっているとはどこにも書いていない。事業者指定をとっているのかもしれないが、一方で利用者の年会費が年2000円で、利用料は1時間900円だと書いてある。指定を受けていないとすれば、この金額でどうやってやりくりしているのかと思いながら読み進めると、ガイドヘルパー研修を頻繁にやって、1講座25000円もとっている。どうやらこれが収益源のようだ。
 そして、チラシのトップには理事構成として偉いさんの名前がずらり。大学教授やら現場の「長」やら。知っている名前もあったが、著名人の名前が並ぶほどにうさんくさく感じるのはなぜだろう。そもそも利用者向けの案内に理事構成をでかでかと書くのは、単なる権威づけでしかないんじゃないだろうか。さらには広域のため、内閣府認証。誰がどう需給調整しているのだろう。わからないことだらけ。
 夜は高校生が6人でインタビューに来た。高校で毎年「人権委員会」というのをボランタリーに募り、全校生徒の前で成果を発表するのだそうな。いろいろ聞かれたけれど、特定の思想に染まっているわけでもなく、かといって不真面目なわけでもなく、いい生徒ばかりだった。「人権」というのはどういう意味で使っているのか聞くと「やりたいことができる、抑圧されていない感じ」。憲法がどうのこうのと言う若者よりも、よっぽど好感が持てる。
 質問の内容は全体に「どうすれば知的障害をもつ人を社会が正しく理解していけるか(大意)」に集中。「あー、自分も昔はそんなことばかり考えていた」と振り返ってみる。学生時代、周りは福祉を専門とする学生ばかりだったので、少し視点にずれがあったように思う。「差別」というのは、社会福祉実践・ソーシャルワーク・介護等にとって、はっきりと課題として設定されているわけではない。差別問題はソーシャルワークの対象ではないとはっきりいう院生もいた。
 しかし、多くの人々が知的障害をもつ人について関心を持ちうるのは、暮らしのどこかで出会ったときの一瞬の関わりの中でしかない。そこで自省することがあるとすれば、「こわい」とか「気持ち悪い」とか思ってしまった「差別的」な自分のあり方についてである。いきなり「障害をもつ人たちや家族の生活」にまで意識を向けるには、かなりの想像力を要する。
 経営やら需給調整にばかり苦しんでいると、目先の問題にばかり目が奪われがちになる。ボランティアグループからNPO化されたという固有の歴史を持っているのだから、原点を見失わないようにしなければ。
 ・・・と書いていて思ったのだけれど、新しい学生ボランティアが来るたびに自分は法人設立に至る歴史的経緯を説明する。これって、けっこう自分自身が法人としてのミッションを内面化していくのに役立っているのかもしれない。そう考えると、この仕事を自分だけでなく、他の職員やボランティアにもしてもらったほうがいいのではないか。