泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

地域内格差と平等

 この地域で養護学校に通う子どもが学童保育所(放課後児童クラブ)に通えるようになったのは2年ほど前のことである。学童保育所は各小学校に併設されており、それまではその小学校の生徒のみが学童に通えるという不平等があった。ゆえに養護学校生の保護者が働くことは極めて難しかった。それ以前にもレスパイトサービスなどはあったが、一時的な保護者の休息のためにできた制度に就労保障の機能を求めるのは無理がある。
 しかし、経済的に働かねば生活が苦しい家庭もある。車を運転する仕事を選び、助手席に子どもを乗せて働く親もいたが、それが子どもにとってよいはずもない。当事者の運動もあり、自治体職員の熱意もあって、自治体単独での制度化に至った。この緊縮財政の中で新規事業を立ち上げるのは容易なことでなかったろう。ゆえに高く評価されたし、大きな前進であった。
 ところが、制度化は奇妙な形でなされた。学童保育所は、自治体が直接に運営し、直接に指導員を雇用している。養護学校生に対する加配の指導員が必要とされるにあたって、行政は指導員の派遣を委託することにした。委託の形式は少しややこしいのだが、その派遣をしているのが、うちの法人である。
 立場が違う職員が混在する現場は難しい。スタッフの調整について自由度は低い。人がころころ変わると嫌がられるし、長時間にわたって特定の子どもだけを中心的に見なければいけない「加配」という仕組みの苦しさもある。長期休暇は朝から夕方まで最長9時間にも及ぶ勤務となる。20代でもきつい労働だが、行政雇用の指導員は一日入れ替わることがない。ゆえに派遣の加配スタッフも交代制を認めてもらえてこなかった。さらに学生スタッフにも入ってほしくないと言われる。必然的に常勤職員か、40代くらいの主婦層(それも幼児教育や保育経験のある人に限られている)が丸一日、学童でひとりの子を見続ける形になる。それが連日続く。主婦層には肉体的な限界を口にする人もいるが、常勤職員が入ってしまうと、ガイドヘルプなど他の子どもたちへの支援が大きく滞る。かといって、他に代わりがいるわけでもない。この2年、綱渡りの調整が続いている。
 そして、そんな綱渡りなど知る由もない保護者が、新たに働き始めた。養護学校への入学を契機に働き始めた。働くことによって収入にもなるし、毎日夕方に子どもを預かってもらうこともできる。働かなければ暮らしていけないかどうかはわからない。それでも、一般の家庭はそんなことを問われることなどないのだ。就労証明さえあれば毎日子どもを学童に通わせるのは親の自由になる。それが子どもにとって本当に良いのかどうかはわからないが、養護学校生の保護者だけがとやかく言われるのはおかしい、とも言える。
 ひとたび学童を使い始めると、これほど魅力的な仕組みはない。うちは長期休暇中に学生ボランティアを集めてのプログラムを手間ひまかけて組んでいるが、保護者にとってはそれに子どもを参加させるよりも学童に預けてしまったほうが楽である。学童のほうが時間も長いし、いつも同じスタッフがつくし、日々慣れ親しんだ場所である。近隣のショートステイのように人手不足を理由に断られることは決してない。「仕事だから」は、有無を言わせぬ理由となる。職員は他のサービスを断ってでも対応しなければいけない。そして、働いていない日でも預かってもらえたらうれしい、と使う側の要求は膨らむ。「それは学童の趣旨とは異なる」と言っても、「うちの子どもにはそちらのほうが安心なのだ」と反論されれば、そうなのかもしれない。
 一方で働いていない親たちがいる。その子どもたちがいる。夏休みの40日間は何もない。そんな子どもと家族のために長期休暇中のプログラムはできた。もともとは親たちが自分たちで作ってきたプログラムだ。それを引き継いだのがうちの法人だが、金にはならない。むしろ持ち出しである。それでもこのプログラムに代わるものは他にない。だから、やる。数十名の学生ボランティアを効果的に活用するのはエネルギーがいる。ノウハウもいる。それでも、やる。
 ここに来ている子どもたちの親だって働きたいに違いない。働いて毎日子どもを預けられれば、そのほうが楽である。就労証明を形式的にとることなんて簡単だ。実際に雇用の実態があるかどうかだって、調べられることはないのだから。週1日2時間の労働だって、毎日働いていると言えば済む。それでもそうしないのは、本当に働かなければやっていけない人のための資源を奪ってはいけないという思いがあるからだった。これは地域内の暗黙の合意である。しかし、そうした事情を知らない若い保護者にはそんなこと関係がない。制度ができ、それを使う権利があるのだ。使わない手はない。
 こうして「働いた者勝ち」の構図が生まれる。こう書くと聞こえは悪いが、ようやく平等になったのである。何が平等になったのか。障害をもつ子どもの(働く)保護者と障害をもたない子どもの(働く)保護者の生活である(「生活」の平等というのは表現としては問題が多いけれど、細かいことはひとまずおいておく)。小学生の子どもを持ちながらも働くのは今や当然の権利であって、それでこそ子育て支援を公約に掲げた首長の理想ではなかったのかと。全くその通りだ。ただ一方で、不平等が拡大したところがある。それは「働く親」と「働かない親」(とその子ども)の生活の差である。
 小さな自治体であるから、このまま利用が増えれば制度は破綻するかもしれない。無理のある調整を続ける法人の運営も破綻するかもしれない。「制度」「サービス」というと立派だが、内実はがたがたである。しかし、その内実はサービスを使う側には見えない。たとえ見えたとしても、事業者の努力不足としか見えない。制度は走りながら改善させていくべきであるが、どの視点に立った改善であるのか。もちろん子どもの立場に立って、に決まっている。しかし、それが一部の子どもの立場でしかないとしたらどうか。地域格差は問題だが、地域内格差はもっと問題である。一度できた格差を埋めるには、低い水準のものを上げるか、高い水準のものを下げるしかない。前者が理想に違いないが、上につらつらと書いてきたことを改めて考えてみると、そうも単純には言えなさそうである。