泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

今どきの高校生

 夏休みの活動(サマースクール)に、某高校からのボランティア募集開始。
 10時から受付を開始して、1日で14件。15名が目安と思っていたので、明日の朝には〆切かもしれない。昨年以上のハイペース。
 だいたいの場合、友達どうし数名で申し込んでくる。ひとりで申し込むのは勇気がいるものなのだろう。学校から代表者が携帯で電話してくる。名乗らずに、一方的に用件だけ言ってくる。こちらから何か伝えると、そのたびに友達にあれこれ説明しているのが、すべてこちらへ筒抜け(「・・・って言ってるよ、どうする?」みたいな)。ものすごく失礼なことばかりなのけれど、まあそれはいい。
 とてもきついのは、ほとんどが1日だけの参加申し込みだったということだ。14名中12名が1日だけ申し込み。残り2名は2日申し込み。こんなことは過去なかった。これの意味するところは「とりあえず単位とるには1日参加しなきゃいけないから」というモチベーションの低さ。1日だけ参加の生徒が活動をその後も継続した例は、ほとんど無い。そんなモチベーションなら、なぜこの科目をわざわざ選択しているのやら。
 この分野でのボランティアコーディネーションに少しでも関わった経験がある人なら容易に共感してもらえるはずだけれど、はじめて来た者にいきなり子どもを任せるわけにはいかないから、結局は経験者といっしょに動いてもらうことになる。つまり、初参加のスタッフは「いてもいなくても同じ(もっと言えば、いないほうがまし)」なのである。それでも受け入れるのは長い目で見て育ってくれれば、という気持ちからでしかない。
 十分にサポートしなければ「誰も助けてくれなかった」となり、サポートしすぎると「何をしていいのかわからなかった」となる。あれこれと気遣いをしても、このままだと大して意味のない受け入れで終わってしまうのだろうか。少しイライラ。
 そして、夜になると別のところから「居場所がないからボランティアをしたい」ニーズがやってきて、さらにイライラ。社会に適応するのが難しい若者にとって、仕事やアルバイトの前段階としてボランティアはお手頃なものと判断されやすい(本人がそう考える場合もあれば、周囲が薦める場合もある)。福祉系ボランティアの現場には、受容的な雰囲気のところも確かにある(もちろん閉鎖的で非受容的なところも山ほどある)。ただ、当然ながら活動の直接的な目的は、ボランティアする側の変容ではない。うちで言えば、子どもの支援が最優先であるに決まっている。そうした若者にとっての居場所の必要性は感じられても、うちに期待されてもつらい。ボランティアコーディネーションは、ボランティアに対するサービスとしても理解されうるけれど、これが過剰になると本末転倒だ。
 若者が「社会的な活動」に関与することの重要性はしばしば言われる。仕事もアルバイトもボランティアも社会的な活動には違いないと考えれば、大部分の人にとって敷居は高くない。しかし、活動の成果を形にするためのサポートはいまだ脆弱だ。
 なんだかボランティアがらみの話に振り回された一日だった。社協のボランティアセンターからは「ボランティアグループとしての団体登録がはじまったのは正確にいつだったか」の問い合わせがあって「明日までにわからないか」って言われるし。登録しているのに、どうしてそっちでわからないのだ。登録がはじまったと推測される10年前なんて、自分は大学1回生だったし、知るはずがない。「今後の参考にしたい」って、何の参考だ。