泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「普遍的なサービス」と動機づけ

 気がつけば昼食もとらずに昼前から2時間ほど話し込んでいた。これまで知的障害児の支援を中心に進めてきた事業展開を、今後大きく転換していくかどうかの瀬戸際にいる。
 「改革のグランドデザイン」以来、障害種別を超えたサービス体系とか普遍的なサービスの必要性が叫ばれ、自立支援法もその流れの中にある。その背景にあるのは、「サービスの理念や機能で区分すれば、どんな障害をもつ人に対する支援であれ、同一性が見出されるのだ」という前提である。加えて、サービス単価の設定も、単一機能のサービスを単一の障害種別の人に提供するだけでは、経営を困難にさせるように向かっている(もちろんかなり地域格差はあるだろうけれど)。
 今日話した人は高齢者分野と身体障害者分野でのヘルパー経験が豊かな人だった。さまざまな話を聞いた。肉体的な大変さも、精神的な大変さも。そして、うちの現況から他分野に進出するのが相当な「気持ち」が必要だということも言われた。甘い気持ちで参入しようとははじめから考えていないが、やはり現場の話を聞いてみると、自分のやってきた仕事とはずいぶん違うということを思い知らされる。
 抽象度をあげて、どの分野のサービスにおいても「理念は同じだ」「機能は同じだ」といえば、それは間違いない。「それぞれの自己決定を尊重する」。「利用者の個別性を大事にした支援をする」。どれもサービスやソーシャルワークにおいて普遍的に求められることである。「一般就労への移行を支援する」。「排泄や入浴、食事等の支援をする」。これらも障害種別には関係ない。この意味でサービスの「普遍性」は言えるだろう。
 しかし、サービスの中で求められる技術のひとつひとつはやはり違う。これらまでもすべて同じと言ってしまうのは少し乱暴であるし、そこまで主張する人はきっといない*1。同時に、その分野に強く惹きつけられた動機もそれぞれにある。ゆえにそれぞれの事業所には強みとか得意分野ができる。自分自身の場合も生育暦などを振り返るに、知的障害をもつ子どもを支援しているのはある程度まで必然性を感じる。むろんこの業界には普遍的なサービス提供へと動機づけられる人もいるのだろう。実際にそんな人もたくさん知っている。ただ、自分自身にそれを求められたとき、あまり自信が持てていない。一方で、参入すれば強く支援してくれそうな人もたくさんいる。その点では自信もある。
 きっとあと一ヶ月くらいは悩む。決断しても、すぐに新事業がスタートできるわけではない。具体的な条件を整えていく期間を意識すると、あまり長くも考え込んではいられない。

*1:この点で「普遍性」を主張することが「排除」を生むという逆説には注意深くありたい。「みんな同じ」が「みんな同じであるべき」に転化したとき、「同じでない」ものは排除の対象にされかねない。