泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

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クォータリー あっと 0号

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上野千鶴子インタビュー「生き延びるための思想」より、気になった部分を。

上野 介護労働者の地位を上げるのは、すごく簡単なんですよ。賃金を上げれば連動して地位も上がります。おカネをたくさん取っている人を、社会は軽蔑できない。医師も看護師も似たようなサービス労働者ですが、賃金が高いばかりに社会的尊敬を獲得しています。だから賃金を上げればいいんですが、それは労働市場の条件で決まるので、労働力不足が深刻になれば、否応なしに労働条件も挙がるでしょう。
 その労働市場のボトムが割れたら今までの話がすべてパーになるのが、外国人労働力の導入です。これまでは、先進国の中では日本だけがきわめて特異な、閉鎖的労働力市場を維持してきました。福祉先進国はどこでも、移民労働力への依存度が高いんですが、唯一の例外が日本です。福祉先進国のスウェーデンにしても、隣国のフィンランドからたくさん医療と福祉関係の労働者が入っています。わずかな為替格差でも、スウェーデンで働く方が有利だから、フィンランドの労働者が入ってくるわけです。言葉は似ているし、顔も似ているし、日本の視察団の人たちは誰もそういう実態に気付かずに、ただ感激して帰ってくるだけですけどね。
 日本では、逆説的なことに、厳格な入管法という参入障壁によって労働力移動が阻まれてきました。介護労働力不足を目の前にして、外務省は入管法の改正をもくろんでいます。日本にも、かなりの規模で介護労働者と家事労働者を入れようというものです。(中略)そうなれば日本の女性問題の解決が、他のアジア女性の搾取の上に成り立つ、ということも起きかねません。(中略)単純労働者の労働開国は、もう日程に上がっているとも言われています。でもそうなったら、私たちが主張している、介護労働者の労働条件の向上などパーになっちゃう。日本人の介護労働者と外国人の介護労働者とが直接の競合関係に入りますからね。

上野 サービスという商品には、他の商品と違って、生産されるその現場でただちに消費されるという性格があります。生産調整や在庫調整もきかない。だからモノは海外に投資して現地の安い労働力を使って生産すればいいけれど、サービスだけはニーズのある現場に、労働者にカラダを運んでもらわなくてはならないのです。だから労働開国を認めざるをえない。
 厚労省が考えているのは、介護労働者の高資格化と国家資格化です。ヘルパー2級免許もしくは1級免許すら廃止して、介護福祉士の国家資格化オンリーを考えているようです。(中略)
 これは何に対する対策かというと、外国人労働者の参入は認めるが、言語の壁によって資格化は阻む、という悪知恵であろう、と予測は立ちますね。つまり介護保険内と介護保険外で、二重労働市場が成立する可能性です。公定価格の保証された保険内利用は有資格の介護福祉士が占め、保険外利用を無資格の低賃金労働者が供給するという棲み分けです。割のいい労働を高資格の日本人労働者が占め、割の悪い労働を移民労働力が占める。その境界にいる人たちは割を食らいますから、おそらく排外主義が起きるでしょう――福祉先進国の経験を見ていると、容易にそういうイヤな展開の予測がつきますね。

 福祉分野の人間の多くが無関心だった「グローバリゼーション」に、こんな形で注目が集まるようになるのだろうか。誰かにとっての福祉を実現するために、誰かの福祉が阻まれることの矛盾とそれを覆い隠す仕組みの数々。アジア女性が実際に出稼ぎ介護労働者として入ってきたときに、果たして日本の介護現場はどう反応するのだろう。「あのヘルパー、出稼ぎで来てるんだって。日本のほうが給料いいもんね。」とか「たくさん来られたら、私らの仕事が奪われるから、やめてほしいわ」という感想で終わるのだとしたら、福祉関係者が何かしらの普遍的な価値観に従って仕事をしているなんて全く信じられなくなりそうだ。その意味では、「高齢者福祉」や「障害者福祉」を閉じさせずに世界との結びつきを取り戻させるチャンスなのかもしれない。 

上野 フェミニズムはいろいろな批判を受けました。レズビアンはどうなるとか、在日に対して配慮がないとか、障害者の女の居場所がないとか、次から次へと声が挙げられましたが、そういう批判を聞きながら私には――人によっては傲慢に聞こえるかもしれませんが――しめしめ、という気持ちがありました。
 それはなぜかというと、アンタが言っていいのなら、アタシだって、という気持ちをいろんな立場の人に持ってもらえたと思ったから。(中略)言葉を奪われた立場の人たちが、なら私も、私も、って言い始めた。(中略)アンタが言うならアタシもっていう、コトバを誘発する、思想の装置は作れたと思っています。(中略)
 そう、アンタたちにいつまでもアタシの代弁はさせないっていうことね。

 「社会福祉学」も当事者の言葉を引き出すための「思想の装置」として、同様な機能を担えたらよいのだけれど。「思想じゃないから」と言われてしまえば、それまで。