泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

論文1本読了

 立岩真也「社会的――言葉の誤用について」『社会学評論』55(3)
 いつもながら独特の文章で、句点で文章が終わったと思ったら実は読点でまだ先が続いていたり、修飾語がどこにかかっているのか一瞬戸惑ったり、ふらふらになりながら読了。メモとして、残しておこう。
 まず、1節で社会(科)学が続けてきた「相対化」の営みが、因果関係の決定や、あるものがあるものより望ましいことを示すためには不十分である、ことを論じる。そこで、規範論における自由主義共同体主義、それから構築−脱構築派などの考え方を用いての弱点克服が考えられるが、それぞれうまくいかないことを示す。
 2節では、何かが受け止められるときのあり方の固定性や可変性を、社会学はもっと場面を分けて考えていくべきであることを主張する。ここで、大きく問題は3つに区分される。
 「相対化」によって、たとえば危険とされてきたものを実は無害であるといったところで、なぜ無害なら排除されてきたのか、は説明できないし、実際に危険だったらどうするのか。(=「人に差はあるのか?」)
 また、因果関係の社会的な規定性をいくら主張しても、ときには先天的に決まっていることもある。さらに、社会的に決まっているということを示すのは、そのことが悪いということを示すことにはならない。社会的に決まっているから社会に介入すべきことにもならないし、生理的に決まっているから生理的な介入が認められることにもならない。(=「人に差があるとして、その原因は何で、どうすればよいか?」)
 そして、人による受け止め方が社会によって異なるといっても、すべてが可変的であるとも言えないし、これもまた社会的に形成されているということは、批判されるべきであるということにはならない。(=「人が人の何を好むか、はどのように決まるか?」)
 そこで、立岩さんは①差の存在を認め、②その差を埋めることへの社会的介入の限界(やときには介入がなされるべきではないこと)を認め、③人が人の何を好むかも決まっている部分があることを認める。その上で必要なのは、人が自分で生み出したものと自分が必要とするものを切断することであるとする。こうして残された問題は、「この関係の設定・変更に関わる動機の問題、『インセンティブ』の問題」である。
 ここまでで2/3。要約として正しいのかどうかも自信はない。自分にとっては、ここまででも面白い議論なのだけれど、どうやら本当に言いたいことはここから先。もちろん最後まで読んだのだが、もう数回読まないと自分の頭ではわかりそうにない。ふう。