泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

譲れるものと譲れないもの

 全国地域生活支援ネットワークの情報誌『PIECE』2号の野沢和弘「『地域生活に未来はあるか』」より。長くなるが、大事な論点になるため、引用。念のために書いておくと、野沢さんは、毎日新聞記者・全日本手をつなぐ育成会。

 何と言っても国と地方合わせて累積債務が900兆円というのが現在の日本の財政である。それも毎年の赤字国債の発行をしなければ予算を組めない状況があと何年も続くのだ。小泉内閣経済財政諮問会議に代表される社会保障削減路線は、福祉の側にいる者にとっては憤りがおさまらないことだろうが、破綻寸前の日本経済が国際的にかろうじて信頼をつなぎとめているのは、こうした小泉政権の財政運営が評価されているからだと指摘する向きもある。
 軒並み社会保障が削られる中で、異例の予算の伸びが許されているのが障害者支援費である。それでも当初予算を100億円も200億円も足りず、他の予算からかき集めて穴埋めしたり、補正予算でやり繰りしているのが実態で、それでも障害者団体側からは「足りない」と批判の矛先が向けられる。
 ただ、霞ヶ関や永田町で障害者支援費に向けられる眼差しの険しさを、障害者関係者は知っているだろうか。自民党や経済界が支援費と介護保険の統合に反対したのは、予算増に歯止めのかからない支援費を解体するのが先だと思っているからである。「統合反対」の気勢を上げた障害者側の声が介護保険からの「障害者排除」を促し、その結果として"財源無き介護保険もどき"のグランドデザイン案を生み出しているというのは、あまりにも皮肉だ。
(中略)これまで「例外的な予算措置」で地域生活を実現してきた障害者にとってはグランドデザインは悪夢であるに違いないが、地域福祉サービスとは無縁だった多数の「声無き障害者」にも届くように持続可能な普遍的サービスを設計しようとしている厚生労働省の姿勢は、霞ヶ関や永田町では当然のものと受け止められている。現在の政治状況や経済状況が変わらない限り、「例外的な予算措置」で地域生活してきた障害者があくまで自分たちの生活を守るための主張を貫き通すのか、大多数の声無き障害者のことを考えて持続可能な地域福祉サービスを受け入れるのかが問われている、と言ってもいい。少なくとも国民からはそのように見られている。

 既得権を守ろうとする一部の障害者VS普遍的かつ持続可能なサービス設計を目指す厚生労働省、という図式はかなり思い切った単純化で、各方面に強い反発を招きそうな気もする。また、これより前の部分では、介護保険の悪い部分にはかなり目をつぶって高い評価を与えている。だが、介護保険制度の開始当初に「障害者福祉も介護保険でやるべきだ」と言っていた人が、どれほどいただろうか。ここでは、介護保険賛成の根拠が、後付けされている感もある。
 それでも批判しようと引用したわけではない。むしろこの文章を評価したいと思っている。自民党や経済界などによる制度の評価に対して、当事者の論理を単純にぶつけることでは何も動かせないし、いっそう状況が悪くなるかもしれない、ということは、想像しうることだ。しかし、それをはっきり書くのはとても勇気がいる。ゆえに、あまりそうした論調はお目にかかれない。
 障害者福祉の政策過程が、これほどまでにスポットライトを浴びうる可能性をもったのは史上はじめてではないか。高齢者福祉政策については、介護保険制度の政策過程の分析をかろうじて見たことがあるが(ISBN:4589026813)、障害者福祉政策についてはまだ見たことがない。どこかにあるにしても、希少なものだろう。政治的にはこれから何が可能で、何が不可能なのか。譲れるものと譲れないものをそのつど区別しながらの運動、ということになるのだろうか。
 明日は、かなり久しぶりの休日。有効に時間を使えたらよいのだが。実際は、本屋での立ち読みと睡眠時間でほとんどつぶれていきそう。