泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

知的障害者研究についてのメモ

 専門誌をたくさん読めているわけでもないので、あまり偉そうに言える立場でもないのだが、知的障害者についての研究者は、その多くが良くも悪くも「社会福祉学者」「社会福祉研究者」などと呼ばれる人たちの中におさまっている。
 これが身体障害者分野となると話は変わってくる。とりわけ目立つのは社会学者の存在だろう。立岩真也、市野川容孝、最近では上野千鶴子まで参入してきた(敬称略)。「研究者」と「当事者」がそれぞれに何をすべきかの線引きは簡単でなく、あくまで研究者は「研究者のゲーム」に徹するのみだ、という立場もある。研究者は本当に当事者の言葉を理解できているのか、というのも究極的には確認のしようがない。けれども、局所的に浸透している知識や技術の価値を、より一般的な文脈の中で示す作業を試みる人がいるということは、きっと心強い。
 さらに、身体障害者分野は「当事者」自身が研究者を職としている場合がある。福島智、石川准、谷口明広(敬称略)・・・名前を挙げようと思えばまだまだいる(福祉について言及する人たちばかりではないが)。障害を持ちながらの研究は、きっと他の研究者より多くの技術や労力を必要とするだろう。「研究者」「当事者」という二つの立場を兼ねることは、それなりに矛盾を伴うこともあるかもしれない。しかし、国の審議会等にこうした人たちが名前を連ねることは、やはり当事者の言葉を政策に届けるパイプとして十分に機能しているように思う(どれだけ真摯に受け止めてもらえているかは別として)。
 ところが、知的障害者は社会科学者一般からはあまり注目されていない(ように思える)。たしかに、社会学における質的な研究の中で扱われるのは目にすることがある。それはそれとして、たとえば支援者のもつ潜在的な権力性を暴き、反省を促したりするかもしれない。大事な仕事である。しかし、社会政策の方向性に対して、力を持つことはできそうもない。こうした研究の不在については、いわゆる「社会福祉学」「社会福祉研究」にも言える。そのことがもたらした事態の一部を、昨日の日記で書いた。
 そして、障害特性ゆえに知的障害者自身が職として研究者をする、ということも、極めて難しい。厚生労働科学研究の分担研究者に施設長の名前がずらりと並ぶこともあるが、そこで求められるのは運営レベルの話もさることながら、本質的には当事者の思いの「代弁」だろう。しかし、支援者は狭義の「当事者」にはなりきれない。それは親であっても、同じことだ。
 ならば、知的障害者について、社会一般や「政治」に向かって発信できるような研究は誰がすればよいのだろう。「当事者」による研究をできるかぎり支援すべきだ、と言えばよいのだろうか。あるいは知的障害者福祉と社会政策の関係を研究する研究者を大学等で育てるべきだ、と言えばよいのだろうか。なんだか自分にはどれもきれいごとに思えて、すっきりしない。

(追記:パソコンは、詳しい人に見てもらうことになりました(特に業者の人というわけではありません)。再セットアップもやりかけたのですが、「ハードディスクの内容が全部消えますが、よろしいですか?」みたいなことを聞かれ、躊躇してしまいました。どうせダメなら、身近な範囲でちょっとでも悪あがきしてみます。)