泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

資格のことをもう少し

 昨日とは少し違った視点でも書いてみようと思う。
 知的障害をもつ人々の地域生活支援をしている立場からすると、「資格要件の厳格化」に対する違和感がもうひとつある。それは、障害をもつ人が「地域社会の中で生きていく」ことが望ましいという考え方とは逆行しているのではないか、ということだ。
 多くの知的障害をもつ人の生活は、家族や教員や施設職員などとの関係の中で完結しがちである。移動介護というサービスを通じて、新たな関係性を築くことも期待されていたと思う。ひとつはヘルパーを媒介として社会と接すること。もうひとつはあまり強調されないことだが、ヘルパーとの関係性そのものを楽しむことである。
 一般に介護・介助というのは、「できないことをできるように支えたり、代行したりする」ことと考えられているし、それはきっと間違ってもいない。けれど、知的障害をもつ人の場合、「どこへ出かけ、何をするか」と同じくらいに、「誰と出かけるか」が大切な要素だったように思う。この意味で、学生ヘルパーの育成や需給調整をすることには大きなやりがいがあった。20歳そこそこの利用者が、40代50代のヘルパーと出かけてもいっしょに外出を楽しみにくいことは、現場ならばみんなよく知っている。
 うちは障害児支援のNPOだが、子どもの保護者からは、ボランティアであれ、ヘルパーであれ、支援者は「若い」ことが強く期待され続けている。それは単に体力的な問題ではなくて、そうした世代の近い者どうしが取り結ぶ関係性こそが、生活の中で不足していると実感されていたからだ。
 ところが、資格要件が厳しくなると、こうした期待に応えるのはどんどん難しくなる。そこでいう「介護者」は単なる環境との「媒介者」へと還元され、それ以上の意味を与えられてはいない。こうした介護者観はきっと常識的なものなのだろう。「関係性」なんてヘルパーに求めるな、と言われるかもしれない。しかし、媒介することに優れたヘルパーがいたとしても、「移動介護」という支援の枠内で他者との関係構築を支援するというのはかなり難しいことであるし、だいいちその「媒介者」との信頼関係は「資格」を持っていれば築けるのだろうか。
 あえて極端な言い方をしてしまえば、資格要件の厳格化によって、障害をもつ人とは「資格がなければ関われなくなる」のだ。多くの人々が障害をもつ人と自ら積極的に関係を取り結ぼうとする社会にでもなれば、ヘルパーにこんな「過剰」な期待をせずに済むのかもしれない。でも、そんな理想は現状とはかけ離れている。この問題は「知的障害をもつ人たちともたない人は『友だち』になれるのか」というとても難しい問題を含んでいるようにも思うけれど、今日はこれ以上は踏み込まないでおく。
 こうしたヘルパーとの関係性をめぐる議論は、社会福祉や障害者福祉一般に当てはまることではないのだろうが、知的障害をもつ人の支援においては、もっと活発になされていいように思う。もし、行政サイドが「そんなニーズはボランティアで満たせばいい」というのであれば、質を守るために「資格が必要だ」ということとは、はっきりと矛盾する。資格を強調する行政は、障害をもつ人への支援の質を守るべく、ボランティアの活動を力づくでも止めなければ筋が通らない。しかし、現実に起こっているのはむしろ「安上がりなボランティア」への期待だろう。
 このように考えてみても、やっぱり資格要件の厳格化は利用者のためのものではなさそうだ。やれやれ。