泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ソーシャルワークの定義を通じて暴かれる欺瞞

(個人的に)待望の新刊。

国際ソーシャルワーク連盟による「ソーシャルワークのグローバル定義」というものがある。社会福祉系の大学等では必ず教えられるはずだ。

この定義は過去に2度改められてきた。せっかくなので引用しておく。

・1982年定義

ソーシャルワークは、社会一般とその社会に生きる個々人の発達を促す、社会変革をもたらすことを目的とする専門職である。

 

・2000年定義

ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人びとのエンパワーメントと解放を促していく。ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。

・2014年定義

ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学、および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。

この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい。

だんだん長くなっていることは一目瞭然であるが、 これは様々な背景があって必要に迫られ「改良」を図ってきたゆえである。無意味に長文化したわけではない。

本書は「ソーシャルワークにおける『知』はいかにして社会的に作られてきたか」を「ソーシャルワークの新しいグローバル定義」に採用された概念につながる歴史を追うことで明らかにしようとしている、と思う。「と思う」と書きたくなるのは、この説明が書名とややズレているように感じるから。

このような書名で出版したのは、なぜだろうか。グローバル定義に使われた多くのキーワードは「近代西欧的なもの」に対して反省的である(「多様性」「地域・民族固有の知」など)。一方で「社会的結束」のように、暴動やテロなどのリスクが反映された概念も組み込まれている。

社会福祉が「社会事業」と呼ばれていた黎明期から現代に至るまで、日本の社会福祉(学)史もまた同様の「西欧近代的なもの」を抱えてきたのにその問題をスルーしてきた。また、例えば地域における人と人のつながりを重視する立場は、しばしば多様性の尊重どころか排他的に作用しうる。

日本の社会福祉学もそのような歴史と現状に目をそらすことなく自覚すべきだ、というメッセージと思えば書名に納得もいく(たぶん出版社から提案されたのだろうと勝手に想像)。

方法としては「ソーシャルワークにおける知」(とその担い手)に関する知識社会学、歴史社会学的な研究、と言ってよいのだろうか。各章では、特定の概念と関連の強い史実が取り上げられている。多くの研究者からあまり注目を受けてこなかったものにあえて注目して、明るみに出している。

もし書名のとおり「社会福祉学における『社会』の捉え方」を分析するのが本当の主題ならば、この研究方法では済まなかったはずだ。「社会福祉政策」ならばまだしも「社会福祉(学)」における社会観の変容について記述するには、どれほどの文献を対象にしなければならなくなるかわからない。

けれども「ソーシャルワークのグローバル定義の変容」を軸にしているから、ポイントは絞り込まれる。そこから、日本の社会福祉史においてあまり指摘されてこなかったことを言う、のが、たぶん著者のやりたかったことなのだろう(もしこの理解が誤っているなら、言いたいことはいろいろ出てくる)。

実際、コロニアリズムとか社会ダーウィニズムとか「五人組」とか、日本の社会福祉の中にもありながらほとんど言及されてこなかった暗部をずばずば突いてくる。過去についても現在についても社会福祉の欺瞞を許さない。

終盤は想像以上に政策批判的な色合いの強い本になっていった。研究者として、というだけではなく、ひとりの生活者として経験してきたことから「専門知」と著者の言う「在来知」のバランスについて考える機会をたくさん与えられたのではないか、となんとなく勝手に想像する。そして、そこに共感できる。最後は「当事者研究」とかに接続されていくのかな、とも想像しながら読んでいたが、そのあては外れた。時期尚早だったか。

最近は仕事上の必要に迫られて、発達心理の教科書的なものを読むばかりだったので、メッセージとストーリーの明確なものを読めて、とても面白かった。同時に、誰か「社会福祉学における『社会』と『知識』の歴史社会学」をがっつりやってくんないかな、とも思った。「社会福祉」と「社会福祉学」の関係もちゃんと整理しながら。

その際には「知識」の一語で表されるものも、誰かもっと機能別に類型化すべきと思う。その過程を経ないと、この本で言うところの「在来知」と「専門知」のそれぞれをどう評価すべきかを定めにくい。

研究者は当然読むべき。言われなくても、みんな読むだろうけど(そのためにこの書名にしているのだろうし)。読みやすいので、現場のワーカーもぜひ。

「障害者の可能性」と「甘えるな」の奇妙な両立

インタビュアーはかの北条かやさんである。

すべて説明されるがままに「そうなんですね」という感じのインタビュー。

日本財団に言われると、福祉事業者はお世話になっているところが多いからみんな黙るしかない。うちも障害者作業所ではないけれど、施設改修で助成金を受けたことがあるし。不勉強で旧態依然とした支援から抜け出せない支援者がたくさんいることも認めよう。

それでも、支援者を育んでいかねばならない立場から書くと、障害者支援を志す人たちにビジネスセンスがないことはこんなに見下されなければならないことなのだろうか。そして、このような煽り方で現場を奮い立たせることができるのだろうか。

世間のイメージでは、障害者施設というのは、「だらしない格好で、髪の毛も整えないような人がうろうろして、バザーをしている場所」といったものだと。そんな施設が建つんだったら、僕だって反対しますよ。

つまり、ちゃんとした姿を見せられない事業所側にも問題があるのです。だから、僕は反対する世間だけが悪いとは思っていません。事業者側が、そういうイメージを変える努力をしていかなければいけない。

身近な親や事業者が、障害者の可能性をつぶしている。

多くの障害者は、自己肯定感が育たないように教育されている。

今まではその「上から目線になってしまう原因」を、社会の差別心のような大きな問題として捉えていましたが、障害者を育てる人たちの意識に問題があったんですね。

障害者を「憐れの蓑」で包み、能力を低くとどめおく事業者が1番の問題だということですよね。

障害者に軽作業をさせるだけの事業者を、多額の補助金で甘やかすような現行制度が変わらないと。

そうです。制度のひずみ、効率の悪い福祉にこれだけ税金が使われているということに、もっと我々が関心を寄せていく必要があります。

中小企業はおろか大企業ですら10年後どころか5年後も安泰でなく、ずっと競争を勝ち続けなければ簡単につぶれてしまう世の中で、社会福祉や介護福祉を勉強してきただけの人たちに。

30万人のうち3割が一般企業で働けて、もう3割は最低賃金を払えるとおっしゃるのだから、18万人分の安定した障害者雇用を生み出せないのは支援者の怠慢だと。

地元の生活介護や就労継続の事業所と関わっているから、もうちょっと売れるもの作れるように頑張ろうぜとか、マーケティングに工夫いるだろとかは率直に思う。もし自分が成人の通所施設やるなら、もうちょっとは上を目指したいとも思う。 

けれども、誰もそんなビジネススキルを高められるような教育は受けてない。まずは、障害児が学校を卒業した後に「行き場所がないこと」を避けようとしてきた。それは地域によっては、今でも変わらない。目標として消極的だと言われれば、その通り。多くの障害者作業所は、切羽詰まった地域の事情から生まれてきた。「入所施設」に対して、地域生活を続けるために最低限の日中活動の場を用意する「通所施設」であったとも言える。

一方で、大学の福祉学部を出ても、介護福祉士社会福祉士等の国家資格をとっても、そのプロセスで知的障害や発達障害への十分な知識なんて得られないのが現状。まずは「障害」に対する適切な理解からのスタートになる。単なる「障害者の行き場所」を超えていこうとすれば、障害への十分な知識を得たうえで、さらに「働くことを通じた自己実現」に強い関心を抱き、ビジネスを学ばなければならない。

生まれた作業所は数年もすれば満杯になる。そこにさらなる卒業生を受け入れてくれと学校や相談支援からの要求が寄せられる。また新たな作業所を生み出さねばならない。新たに制度的な要件を満たした事業所を作り、力のある支援者を異動させる。また新たに支援者も雇う。これを数年おきには繰り返さねばならない。卒業生の人数を見ながらの事業運営と拡大(※ただし、社会資源の豊富な地域の事情は異なるだろう)。

仕事として「すべきことがある」のはとても重要だ。「できる」ことは自信につながる。知的障害や発達障害があると「自由」によって、かえって不安定になる人も多い。だから、とにかく場があって支援者がいればよい、というものではない。「すべきこと」「できること」を用意しなければならない。もちろん積極的に取り組みたいと思えることを。それは、正しい。

だから、「障害者」が充実した日々を送るために、ひとりひとりが自己肯定感を得られるような仕事を生み出していこう、と言えばよい。そろそろ「卒業後の単なる行き場所」を超えて、「働くことの喜びを得られる場所」に変えていこう、と言えばよい。思いはあってもそのための方法がわからない支援者のために、私たちは力になります、と。「社会保障費の偏在」「税金の無駄遣い」云々ではなく。

良い意味でのプレッシャーがあると、事業者側も、誰も買わないようなクッキーや手芸品を作っているままではダメだ、となる。

で、このインタビュー記事はその「良い意味でのプレッシャー」として、支援者が「明日から頑張らねば」と思える内容になっているのだろうか? 自分にはそんな書き方には思えないし、ますます現場の元気を失わせると思うのだけれど。その人なりの力を発揮しようとした末に「お前は甘えている」って言われて、頑張れる人を知らない。

「障害者」には「潜在的な力を活かせていないだけ」と言う人たちが、「支援者」には「甘えるな」と簡単に言えてしまうのがいつも不思議だ。きっと世の中が「健常者」と「障害者」の二種類でできているのだろう。

衆院選マニフェスト比較2017(障害者分野)

はてなブログに移行して最初の記事が恒例の「マニフェスト比較」になるとは思っていなかった。

はじめての人のためにいちおう書いておくと、国政選挙のたびに主要政党のマニフェストから「障害者」に関する部分だけを抜き出して、比較している。過去のものはこちら(参院選2010衆院選2012参院選2013衆院選2014参院選2016)。

社会保障や税制なども含む政策全体の中で見なければいけないとは思うけれど、ひとまずわかりやすく「障害児者」や「障害児者と関わる福祉・教育等の関係者」について直接言及した記述だけ確認しておきたい、という人には役立つかもしれない。マニフェストからの全文引用ばかりではしんどいので、私的なコメントもつけていく。

まずは、もちろん政権与党から。

自由民主党
政策BANK2017

人づくり革命
〇幼児教育の無償化や介護人材の確保などを通じてわが国の社会保障制度を全世代型社会保障へ大きく転換するとともに、所得の低い家庭の子供に限った高等教育無償化やリカレント教育の充実など人への投資を拡充し、「人づくり革命」を力強く推進します。
〇「介護離職ゼロ」に向けて、2020年代初頭までに50万人分の介護の受け皿を整備するとともに、介護人材の更なる処遇改善を進めることにより、現役世代が直面する介護に対する不安を解消していきます。

働き方改革
〇女性・若者・高齢者、障害や病気のある方やその家族など誰もが意欲と能力に応じて就労や社会参加できるよう、ガイドラインの制定や実効性のある政策手段を講じてテレワークや副業・兼業などの柔軟で多様な働き方を進めるとともに、就労支援、生活支援、居場所作りを進めます。

2020年東京オリンピックパラリンピック
パラリンピックのレガシー(遺産)として、心のバリアフリーの推進や公共交通機関、建築物、道路等のバリアフリー化を進め、障害者も高齢者も健常者も共生できるユニバーサルデザインの社会をつくります。

社会保障
〇地域の実情に応じた介護サービスの整備や介護人材の確保を進め、介護離職ゼロを実現するとともに、認知症の方と家族を支援します。

教育
〇いじめや不登校発達障害などへの対策を強化するため、スクールカウンセラーソーシャルワーカー特別支援教育支援員などの相談や支援体制を拡充します。

概要版とも言える「政策パンフレット」のほうには障害者関連の記述がなく、詳細を記した「政策BANK」のほうから抜き出すことになった。印象的なのは「社会保障」の項目中に「障害者」の言葉がないこと。介護人材の確保や「誰もが就労・社会参加」などは訴えているけれど、障害者に対する施策としては具体的な提案が無くなっている。

ただ、こうしたことははじめてじゃない。2014年の衆院選マニフェストでも「出産・子育て応援」の中に埋没したことがあり、そのときと内容としても似ている。一方で、昨年の参院選のときは具体的な施策に踏み込んでいて、選挙によってばらつきがあるのが自民党。与党として具体的な施策を掲げるときは、およそ道筋ができているときでもあって(実際、前回の参院選で掲げていた「医療的ケア」「訪問型発達支援」は来年度から強化される見通し)、大風呂敷は広げない。

次はちょっと長めの引用になる。

公明党

重点政策

3 人を育む政治の実現へ

障がい者のライフステージに応じた教育・支援の充実

●発達障がいを含めた障がいのある子どもが早期から継続的に適切な教育や支援を受けられるよう、発達障がい等の早期発見・早期療育支援、情報の適切な共有・引き継ぎなど、関係機関の連携による乳幼児期から就労期まで一貫した支援の仕組みづくりを推進します。

●一人ひとりのニーズに応じた連続性のある多様な学びの場の整備、特別支援教育コーディネーターの専任化のための教職員定数の改善、高校での通級指導の体制整備、特別支援教育支援員の配置促進など、障がいのある子と障がいのない子が、共に学ぶことをめざすインクルーシブ教育の支援体制を整備します。

●障がい児が幼児期から身近な子ども子育て施設を利用できるように推進するとともに、ライフステージに応じて、能力、特性を踏まえた専門的で十分な教育を受けられるよう、特別支援教育を担当する教員をはじめ、すべての教職員の資質能力、専門性の向上を促進します。

●障がいがあっても大学等で質の高い教育を受けられるように、各地域の中心となる大学へ財政支援を拡充し、障がいのある学生の修学・就職支援のための当該地域における「センター」の形成を推進します。

障がい者が安心して地域生活を送れるよう、グループホーム等の整備、農福連携・テレワークなどの就労・定着支援、発達障がい児・者の地域支援体制の強化に取り組みます。

●学習に困難を抱える子どもの学びを支援するため、デイジー教科書などのデジタル教材等を支給する仕組みを制度化するとともに、ICTの積極的な活用を推進します。

●新生児聴覚スクリーニングにより、聴覚障がいのある子どもを早期に適切な治療や療育につなげる体制を整備します。

⑸ 保育や介護従事者の賃金引き上げなど

処遇改善、キャリアアップ支援

●保育士・介護福祉士など介護従事者・障がい福祉サービス等の従事者といった今後の福祉人材の確保のため、賃金引き上げやキャリアアップ支援等の処遇改善や専門性の確保など総合的な取り組みを進めます。

●介護離職ゼロに向け、介護従事者の処遇改善や再就職支援、介護福祉士養成や学生等に対する支援などで必要な人材を確保します。

⑹ 介護の業務負担の軽減と生産性の向上

●介護事業所等のICT化による業務の効率化、情報の共有化を進め、介護従事者等の負担軽減とサービスの質・生産性の向上を図ります。

⑺ 地域包括ケアシステムの構築

高齢、障がい、児童等の対象者ごとに充実させてきた福祉サービスについて、多様化・複合化する地域のニーズに対応するため地域共生型の福祉サービスが必要となっており、それぞれの地域の実状を踏まえた地域包括型の支援体制の整備を進めます。

バリアフリーの一層の推進

●ユニバーサル社会をめざし、バリアフリー施策の見直しを行うとともに、鉄道駅等において「ホームドア」や「内方線付き点状ブロック」の整備、子育て支援施設、段差の解消や分かりやすい案内板などのバリアフリーや、心のバリアフリーなどのソフト対策を推進します。また、「新たなタイプのホームドア」のための技術開発も促進します。

高齢者、車いすの方、ベビーカー利用の方、妊娠中の方など誰もが安心して利用できる「ユニバーサルデザインタクシー(UDタクシー)」の普及・促進を図ります。

●デジタル・ディバイド(情報格差)を解消し、高齢者・障がい者を含む誰もがICTの恩恵を享受できる情報バリアフリー社会の実現のため、ウェブサイトの改善、高齢者・障がい者に配慮した通信・放送サービス等の開発・提供を促進します。

(22)人権の保護、性的マイノリティーの支援

成年後見制度が、必要とする人に十分利用されていない状況を改善するため、公明党主導で成立した成年後見二法に基づく施策を着実に実施し、ノーマライゼーション、自己決定権の尊重などの成年後見制度の理念を踏まえつつ、制度の改善、権利制限(欠格条項)の撤廃、人材の育成、不正防止対策などを進めることにより、成年後見制度の適切な利用を促進します。

●法テラスに寄せられるDV・ストーカー・児童虐待被害者の相談が年々増加傾向にあります。認知機能が不十分な高齢者・障がい者に対する援助も含め、体制整備とさらなる司法ソーシャルワークの推進を図ります

発達障害」「特別支援教育」「成年後見制度」への熱意は昔から感じられる公明党。「新生児聴覚スクリーニング」や「デイジー教科書」「司法ソーシャルワーク」などもかねてからの公約であり、こだわりが感じられる。新たな内容としては「ユニバーサルデザインタクシー」「介護事業所の業務効率化・情報共有化」。渋い。

ここまでが現与党。いくらか具体的な部分で共通しているのは「介護人材の処遇改善」と「特別支援教育の支援体制拡充」。特別支援教育については、自民党のほうがいじめや不登校も含めて、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなど「非教育職」に期待している一方で、公明党のほうは「特別支援教育コーディネーターの専任化」を目指しているという力点の違いも。

さあ、注目のあの党の障害者政策はいかに。

希望の党

希望の党政策パンフレット

公約6 ダイバーシティ社会の実現

性別、性的指向、年齢、人種、障害の有無等に関わらず、すべての人が輝ける社会を目指します。

政策集:私たちが目指す「希望への道」

5. 雇用・教育・福祉に希望を ~正社員で働ける、結婚できる、子どもを育てられる社会へ~
•医療・介護・障がい福祉に関する世帯ごとの自己負担額を合算し、所得や資産に応じて定める上限額以上の負担額は公費で補てんする「総合合算制度」を導入する。

「障がい」という表記と「総合合算制度」は、民進党の前回マニフェストから引き継がれている。前回もマニフェストにはこの一点だけの記述しかなく、マニフェストとは別に党サイトに掲載されていた「政策集」に細々としたポイントが書かれていたのだけれど、今回はそれも見当たらないので、「希望の党」としてはこれだけ。

民進党からの合流者の中には「福祉をライフワークにしている」と公言して憚らない議員もいるというのに、ずいぶんとさびしい内容。「ダイバーシティ」とは言うものの「特に、女性、シニアの力をさらに生かします」という記述もあり、「生産性の高いダイバーシティ」だけが好みなのだろうか。

日本維新の会

政策

(記述なし)

前々回の選挙で「就労支援を促進して、障害者を納税者に」(一行)。前回の選挙で「ICT技術の活用や、在宅ワークの推進で、障がい者(チャレンジド)を納税者に」(二行)。人間は働けてナンボの世界観の中でのみ「進歩」を見せてきた維新だったが、また言及が消失(4年ぶり2回目)。

「教育・子育て・労働・社会保障」のカテゴリーの中には「障害」どころか「福祉」も「介護」も出てこない。

「非与党」で「第三極」でもない二党がほとんど(全く)「障害」に言及しない、という結果。準備期間の短さは同情するが、障害をもつ有権者にとっては判断材料が何も提供されなかった。

ここからいわゆる「第三極」。

立憲民主党

国民との約束

1 生活の現場から暮らしを立て直します
②保育士・幼稚園教諭、介護職員等の待遇改善・給与引き上げ、診療報酬・介護報酬の引き上げ、医療・介護の自己負担の軽減


3 個人の権利を尊重し、ともに支え合う社会を実現します
障がい者差別解消法の運用強化、手話言語法制定の推進

障害福祉で働く人たちには「待遇改善」、障がい者には差別解消法の運用強化。総合支援法の現状に対するスタンスは残念ながら見えてこない。「手話言語法」はかつて公明党が繰り返しマニフェストに登場させていたが、民主党民進党も何も言ってこなかったはず。なぜ急に出てきたのか不明。

社会民主党

政策

3 憲法を活かした安心の社会保障

介護

〇介護従事者の賃金の引上げなど処遇改善を図り、介護人材の養成、確保に取り組みます。

障がい者

〇障害者権利条約、障害者差別解消法を徹底し、差別のない、共に生きる社会をつくっていきます。精神保健福祉法の改正案に反対し、地域医療・福祉の充実と権利擁護制度の創設の方向で抜本的に見直します。

障がい者の働く場を拡大するととともに、障がい者の所得保障に取り組みます。運賃割引制度を拡げます。

〇「手話言語法」を制定します。障がい者の社会参加に必要な情報アクセスやコミュニケーション手段を保証します。

〇ユニバーサル・デザインやバリアフリーをすすめます。

4 子ども・若者に居場所と希望を

〇障がい児保育、病児保育、一時保育などの体制を整備します。インクルーシブ教育をすすめます。

 社民党マニフェストの特徴だった「現状をたくさん書く」ことが無くなり、コンパクトになった(まとめる立場としてはうれしい)。

簡単に説明しておくと、「精神保健福祉法の改正案に反対し、地域医療・福祉の充実と権利擁護制度の創設」というのは、津久井やまゆり園の事件をきっかけとして精神障害者への監視を強化しようとする改正法案があり、それに対する批判。

共産党

総選挙政策

(膨大ですので、リンク先の「32、障害者、障害児」「36、教育」などをご覧ください…)

毎回、共産党マニフェストは全文の引用ができないほどのボリューム。総合支援法は廃止して、民主党政権時代の「基本合意」や「骨格提言」にもとづく障害者総合福祉法を制定するが、当面は総合支援法の抜本改革にとりくむ、というスタンス。

「我が事・丸ごと」政策は公的責任の放棄で、合理的配慮は努力義務から完全義務化へ。利用者負担は無料で、就労継続支援はB型でも最低賃金保障。日額払いではなく、月額払いに戻す。報酬大幅減が検討中の放課後等デイはむしろ報酬を引上げ。

実現可能性がないのはさておき、全国さまざまな地域からあがってきた課題を吸い上げて作られているようなので、自分のような関係者ですら知らなかった論点がでてきて勉強になることもある。

個人的にツボだったのは「保育所等訪問支援事業の保護者負担をなくし、自治体ごとの巡回指導も引き続き保障します」。民間の事業所による保育所等訪問支援があるからと、ずっと自治体で実施してきた巡回指導を打ち切るところが出てきている、ということなのだろう。かなり無茶な話だ。

 

さて、いわゆる「第三極」に共通しているのは「介護職員の処遇改善」と「差別解消法の推進・強化」と「手話言語法」となった。立憲民主のボリュームが少ないので、共通項を見出すことにあまり意味はないかもしれないけれど。

それでも、「与党」と「第三極」のすべてが介護職員の処遇改善は訴えているわけなので、これからも処遇改善は拡充されるのだろう(主要政党の中でこれを書いていないのが「希望」と「維新」だけであるというのはとても興味深い)。基本報酬を上げるのではなく、ちゃんと従業者に対して支払われるようにと処遇改善を条件にして加算をつける、というやり方はずっと続いている。正直言って、現場は必要とされる書類の多さにうんざりしているし、手放しでの評価はできない。それでも、何もないよりはマシ。

 

全体として、 障害児者が使える福祉制度の内容についてはあまり書かれなくなり、一般施策(教育とか労働とか)の中での支援に関心がシフトしているような印象。福祉制度に課題があっても、複雑すぎて扱いづらいということかもしれないし、「集票」を意識すれば支援対象の裾野は広いほうがよいということかもしれない。いろんな解釈ができると思う。

以上は「障害者」に限ったマニフェスト紹介に過ぎないので、誰かが「子どもの貧困」とか「不登校」とか「生活困窮者」とかでも作ってくれるとうれしい。やってみるとわかるが、けっこうめんどくさい作業である。

あ、「日本のこころ」を書き忘れていた。もちろん記述なし。

次のステージへ

今さらだけれど、はてなブログに移行した。

もともと障害をもつ子どもや家族のことばかり書いてきて、もう書きたいことはそんなにないというか、同じようなことを何度も書くのは好きじゃない、と思っていた。

けれども、子どもたちと関わる施策の状況は変わっていくし、また新しい課題も生まれてくる。

最近は「障害福祉」の外側で仕事をすることが増えた。貧困、虐待、DV、離婚、死別、非行、不登校。人が生きていく上での課題とは、どんどん積み重なっていくもので、弱り目に祟り目とはよく言ったものだ、と思う。

ずっと「障害」や「家族」と関わってきたことが、ここに来て役立っている。「障害児」への支援環境はこの5年ほどで一変してしまい、虚しさを感じることも多かった。それでも、地域の中で地道に長くやってきた意義はあった。

そんな話も含めて、もっと世間に知られていいと思えることがあり、また書きたいと思ったとき、はてなダイアリーは少しだけ画面が読みづらいように感じてしまったのだ。

facebooktwitterに比べて、ブログは人気記事にでもならなければ、誰がどのように読んでいるのかわからずに、執筆意欲を失う。次の更新はいつになるかわからないけれど、個人的な愚痴ではなく、公益性のあるものを書けるように頑張りたい。

また、よろしくお願いします。

苦しい

 しばらくこんな更新はせずに来たけれど。読んでいる人も少ないだろう。
 苦しい。つらい。窮状に拍車がかかるばかりの半年。
 とどめをさされた。これから年度末にかけて、また何かある可能性だってある。
 どれほど苦しくとも対応しなければならない。決して逃れることはできない。それが自分の立場。
 眠れる精神状態にない。いつか限界が来て、眠るのだろう。そのときにはもう目が覚めなければよい、と思う。

「放課後バブル」のゆくえ

 業界が少しだけざわついているようなので、およそ半年ぶりのブログ更新。

障害児預かり、運営厳格化へ 全国8400カ所、不正防止で
https://this.kiji.is/189297838486110214

放課後デイ運営厳格化 厚労省方針、不正防止図る
http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=309159&comment_sub_id=0&category_id=256

 いちおう非関係者にもわかるように説明すると「放課後に障害児を預かる(「療育」する?)事業の報酬単価をがーんと上げたら、営利企業の参入が急増。「儲かりまっせ」というコンサルまで登場。保護者はどんどん子どもを預けるようになり、給付費はぐんぐん増大。やばい、もっと厳しくしていこう」ということである。

 記事にあるような不正は実際に指摘されているのだけれど、多くの不正は「いない人間が書類上はいることになっている」「やっていない支援が書類上やったことになっている」ことで給付費が請求されてしまうのだから、事業所の設立要件を高めたところで大した解決にはならない。もちろん、そんなことは国だってわかっている。

 これは増大する給付費を抑制するためのひとつの方法であり、「抑制しようと頑張っている」ことのアピールとして見るべきだろう。次の報酬改定は30年度だから、単価をすぐには変えられない。資格や従業歴の要件を厳しくするくらいならば、システムの大きな変更は必要がなく、すぐにできる。内容によっては、各都道府県に「変えたよ」と通知するだけで済む。

 もっとも、その程度のことに大きな効果を見込んでいるとも思えない。「パフォーマンス」という言葉さえ浮かぶ

 給付費について、国が2分の1を負担してくれるとはいえ、地方自治体の予算もどんどん膨れ上がっている。運営実態調査によれば、収支差率は他の障害福祉事業と比べても、高い。財務省からも睨まれているだろうし、厚生労働省の内部でだって予算の奪い合いはあるだろう。国会議員の目もある。だから「努力」を見せておかねばならない。

 国はこれまでにも基本報酬を下げて有資格者の配置に加算をつける形にしたり、運営のガイドラインを作成したりもしてきた。障害福祉の中でも「障害児支援の強化」は積年の課題だったわけで、ようやく社会資源を増やせた放課後等デイサービスという事業を「守る」ためにも「適正化」しなければならないわけである。

 27年度の報酬改定でぐんと単価が落とされてもおかしくなかった。障害児支援はもともとが脆弱だっただけに、「あと3年」と猶予をくれたのだろう、と思っている。また、抑制のタイミングを誤ると、「このご時世に『子育て支援』を削った」という評価にもなりかねない。その後、さらに事業所数は増え続けていて、利用する側にとってみれば選択肢は増えた。不正のニュースもたくさん流れた。国としては「そろそろ梯子を外しても社会的に非難されない」という時期だ。ひとたび立ち上がった事業所は、簡単に無くなりはしない。もちろん、そこにつけこまれている、とも言える。が、長くこの業界にいる者にとっては想定内。あとは、今後の「下げ方」「下げ幅」の問題。

 おそらく経過措置が設けられるので、いま仕事をしている無資格者がすぐに首を切られるようなことにはならないだろうし、保育士ほどではない資格要件や研修要件が含まれてくる可能性もある(もともと「児童指導員」とか含んでいるけれど)。管理責任者の要件についても同様。そもそも「障害児支援のスキルを担保するような公的資格」が存在しないのだから、人員に関する要件は厳しくしづらい。

 行政による実地指導(俗に「監査」と呼ばれる、厳密には意味が違う)は、事業所の適正運営について一定のプレッシャーにはなる。が、実地指導の主体は都道府県であり、日常的に支援の中身なんて知る機会はない。支援の質を評価できるような人材もほとんどいないだろう。利用者や内部からタレコミがあるくらいにタチが悪い不正請求しか防げない。

 給付費の「適正化」のために、ひとまずは今回の「運営厳格化」で時間稼ぎをしながら、「30年の報酬改定」でどのように手を入れるか。この予測は難しい。正直言って、どんな形がよいのか、自分にもよくわからない。何を報酬上で評価するのか。「客観化」できるものでしか、報酬に区別はつけられない。支援の必要度? 従業者の資格? 子どもの利用時間? すでに多くの事業所が多様な形での事業所運営をしているだけに、穏当な落としどころが見つけられるのかどうか。現場で多様な事業所を見聞きする自分ですら良い案が浮かばないのだから、きっと厚労省としても頭が痛いところだろう。

 供給サイドの質が責められやすいが、これからは利用サイドに目が向けられるかもしれない。給付抑制をかける立場から、大っぴらには説明されないだろうが。静かに。

 家にいても何かと目が離せない子どもを預かってくれるのだから、放課後等デイをどんどん保護者が利用したがるのは当然だ。わが子と同世代の子どもたちが、放課後を学童保育や部活や習い事で過ごしている。それがこの国の自然な「放課後」のあり方であるならば、「障害児」だけが否定的なまなざしを向けられる理由はない。「おにいちゃんは週6日部活で、夜まで帰ってこない」のだから、「障害をもつ弟だって週6日どこかで過ごしたってよいではないか」と。

 一方で、「子どもを放課後等デイに毎日預けたいが、理由がないと支給決定をしてもらえないので、働く」「子どもと関わるのがしんどいので、週5日預かってほしい」という保護者が増え、それらを「上客」として喜んで受け入れる事業所が増えてくると、いびつさを感じる。それは「子ども」自身の望んでいることなのかどうか。「子どもとの関わり方がわからない」と言う保護者に必要なのは「放課後等デイ」なのか。「預ける」「預かる」以外の選択肢がまず検討されるべき場面で「放課後等デイ」が安易に選ばれてしまってはいないか。これらはまっとうな問題意識だ。

 放課後等デイを利用するには、相談支援事業者等といっしょに「サービス利用計画」を立てる(そして、行政から支給決定を受ける)ことが前提になっているのだから、そのプロセスで支援の内容が吟味されるべき、とも言える。ただ、これを強調すると、今度は相談支援事業者が「給付抑制のための番人」にされてしまうおそれもあるので、つらいところ。また、相談支援と放課後等デイが同一の事業者ならば、どうしても利用計画はお手盛りになるし、計画は自分で立てることも認められているので(「セルフプラン」)、抜け道は多い。

 すべての親子にとって必要な支援をゼロから丁寧に考えたうえで支給決定されるような状況を、今のシステムには期待できない。こうして、支給を「適正化」するには報酬を下げることが最も簡単だ、という結論に至っていくわけである。

 ちなみに我が地元では、この放課後等デイの給付費増大もあって、別の市町村事業について報酬改定が検討されており、マンツーマンの支援を必要とする事業について行政が最低賃金を割る単価を提示して「もう反論は受け付けない」と開き直る異常事態となっている。ちなみに、ここでも表立っての理由づけは「不正受給の防止」であった。給付抑制は、いつも「不正防止」を掲げてなされる。保護者へのお願い。相手がたとえ世話になっている事業所であっても、実際に提供されていないと思われる実績記録には印鑑を押さないように気をつけてほしい。結果的に、皆が足を引っ張られることになる。

「障害者」のリアリティをもって抗いたい

 相模原の入所施設で凄惨な事件が起きた。障害者支援をしてきた者(かつ事業所の経営者)として、考えさせられることが多すぎて、2日のあいだ(職場の中でさえも)コメントできずにいた。
 今回、亡くなられた方たちは性別と年齢のみが報じられている。このことについて、朝日新聞のヨーロッパ特派員によるツイートが強く批判されているのを見て、自分たちにとっての課題を少し記しておきたい、と思った*1

神奈川県警「現場が障害者の入所する施設で、氏名の非公表を求める遺族からの強い要望があった」→匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります。
https://twitter.com/shiho_watanabe/status/758178708859527168

 これまで犯罪被害者の遺族に対する執拗な取材が、悲しみに暮れる人々に追い討ちをかけたり、誰のための何のための報道であるのかに強い疑念を抱かせたりしてきたことの結果であるのだろうと思う。
 自分はもともと被害者どころか加害者の実名報道にさえも否定的な立場である。起きた現実を正しく伝えるのに名前は関係ない。実名を公にすれば、ただ「伝える」ことにとどまらない社会的機能を持つことになる。その功罪については慎重な判断が求められるし、誰よりも被害者遺族の意向は尊重されなければならない。
 その上で、障害をもつ人たちの支援をしてきた者として、ひとつだけ、思う。これを機にして被害者、家族、支援者の「前向きな生きざま」は十分に世間から想像されるのだろうか、と。
 匿名掲示板やSNSで、犯人と同じような思想の持ち主を探すことはそれほど難しくはない。また「優れた生」とか「育てやすい生」を選別することに、消極的にでも賛同する人たちはたくさんいる。
 障害者が生きること、障害者を育てること、障害者を支援することは大変だ、と言うのは、当事者に寄り添おうとする人たちの理解である。こうした人々が社会の中に増えることで、障害者や家族を支えなければならないという規範も制度も生まれるし、福祉従事者の待遇改善が社会的に叫ばれることにもなる。
 今回の事件について第一報があったときも、介護労働のストレスや夜間の人員配置の厳しさなどが事件の背景として指摘された。毎日新聞の社説で野沢和弘さんが書かれていたとおり(野沢さんは障害者の父親でもある)、この15年ほどでずいぶん障害者支援の制度は拡充されたものの、もちろん社会的な不備は依然として山のように残っている。これで十分だなんて、誰も言わない。
 けれども、被害に関わった人々を想うとき、「生きることに必死だった障害者」「障害者を育てる困難から施設に預けた家族」「その障害者を厳しい労働条件のもとで支えてきた労働者」という理解を中心にすれば、ここでは結果的に犯人が伝えようとしたメッセージに加担してしまうことにもなりかねない。
 「殺すのは許せない」けれども「重度障害者が生きるのは確かに苦難だ」「障害者が楽しく生きられるなんて、きれいごとだ」と。犯人は「安楽死」も主張していたと報じられているが、障害者や家族の人生にはただ苦難だけしかない、と偏れば、犯人の主張に接近していくことにもなるだろう。それは多くの人々が望んでいることでもないはずだ。
 「障害」に伴う困難は、たとえ重複障害であったとしても人間のすべてを覆いつくすわけではなく、解消不可能なわけでもない。多くの人たちから支援を受けて、社会のあたたかさを感じながら(しばしば裏切られながら)みんな喜びも悲しみも経験していく。絶望を経由して得られた夢や希望だってある(もちろん本人と家族とでは違いがあるだろうけれど)。
 そうした自己の表現がわかりにくい人はたくさんいて、誤解は招きやすいかもしれないし、犯人にも全く理解はされていなかっただろう。人間の尊厳とはそのような理屈以前に目の前の命から感受されるものであると思うけれど、それが過剰な期待であるとしたら、障害者の生にある多様な側面について、もっと知られるための努力が試みられなければならないのかもしれない。障害者の生のリアリティを丸ごと伝える、ということである。
 施設入所中心の時代から、重度障害者であっても地域にあるグループホームでの生活(さらには一人暮らし)へと移っていこうとする時代にあって、施設入所者が被害にあった事件であるということは、家族や関係者からの発信をきっと難しくする。それゆえに今後、障害をもつ人たちの生きざまがどんなふうに伝えられて、静かに浸透する「優生」の潮流にどう作用していくのか、が気にかかる。
 報道は「悲劇」を伝えるのを得意としても、障害をもちながら穏やかに進んでいく当たり前の日常はなかなか伝えてくれない(そもそもそこにはニュース性がない)。いまを生きる障害者のリアリティを過不足なく伝えられるのは誰だろうか。自分たちのような支援者にも責任があるというか、できることはあるだろう。「障害福祉サービス」従業者として、ただ直接支援を続けるだけでも、障害をもつ人たちの困難を伝えるのでもなく、喜びも悲しみもみんなある生活を丸ごと世間に伝えていくこと。また仕事が増えた。

*1:ちなみに厚生労働省からは、事件を受けて社会福祉施設向けの事務連絡(注意喚起)が出されている。内容は、入所者の安全を確保すべく「1.日中及び夜間における施設の管理・防犯体制、職員間の連絡体制を含めた緊急時の対応体制を適切に構築するとともに、夜間等における施錠などの防犯措置を徹底すること。2.日頃から警察等関係機関との協力・連携体制の構築に努め、有事の際には迅速な通報体制を構築すること。3.地域に開かれた施設運営を行うことは、地域住民との連携協力の下、不審者の発見等防犯体制の強化にもつながることから、入所者等の家族やボランティア、地域住民などとの連携体制の強化に努めること。」