泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

支援における「ズルさ」

・外出の支援というのは、(1)屋外での行動に支援が必要である場合と(2)屋外での単独行動に本人が不安を抱えている場合とに大きく分類できると思っていたが、もうひとつあった。(3)外出支援を使わないと出不精で家にこもってしまう場合だ。

・その(1)(2)(3)を順にこなした三日間。(2)はほぼ見守りであり、(3)は家を出た時点で、もうヘルパーとしてほとんど役割を終えている。そこから長時間になると、なかなか忍耐がいる。

・いろいろ創意工夫ができるのはやはり通所系の支援だと思える。場があるのは大きい。大人の余暇を広げていくにも、通所を拠点に考えたほうがイメージしやすいのではないか。しかし、自分の立場では無いものねだりにしかならない。

ダブルチーズバーガーのセットって、牛丼特盛と同じくらいのカロリーなのか…。罪深い商品だなあ。

・知的障害+自閉症の彼。自分で決めてもらえば、外食はどこでもマクドナルド一択になる。はじめっから頭にはマクドナルドの特定のメニューしかない。同じような人は他にもたくさんいる。「マクドナルドはダメ」と言えば「従う」人もいるだろうが、なぜダメなのか。正当な理由はない。「外食の幅を広げたい」は目標になりうるだろう。でも、一方的に選択肢を制限するような方法を正当化はしない。

・ここで都合よく集団を活用したくなる。みんなでここで食事をとるのだと。だから、今回はこの中から選んでくださいと。すると、なんとなく「折り合いをつけねばならないのは世の常」と納得できてしまう。納得するのは誰か。本人か。支援者か。

・生活に変化を生じさせるのに、誰かが背中を押さねばならないタイプの人がいる。自分自身もそんなタイプなので、自発にまかせていては行動がなかなか変わらないのもわかる。それでも、同じ生活者の関係性の中で違う行動を促されて変わるのと、支援者から特定の行動に制約をかけられるのは、意味が違う。

・支援者は支援者である限り、暴力性を自覚せざるをえないのかもしれない。作為的でない人対人の関係性の中であれば、誰も罪悪感を感じることなく、自然に変容を求められるのだろう。ただ、それは暴力性に無自覚なだけであるとも思う。まして、作為的に支援者がそれを活用するのは「ズルい」。

・支援において「ズルい」のは許容されるべきか否か、という問題。

・たとえ答えが出せたところで、そんなズルい方法さえもヘルパーと2人だと使えない。支援者が、支援者としての役割から一時的に離れてみせるのはありうる。たとえばヘルパーが「自分はマクドナルドで食べたくない」というわけだ。しかし、これは「介助者手足論」的に見れば、もってのほかである。関係性のあり方に議論の焦点は移る。

・足の重さがものすごいので、寝よう。ただ、考えているうちに眠気はすっかりなくなってしまった。