泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「個別化した支援」への誤解

 「マニュアル化した支援ではダメだ」という人が、体系化された支援の方法論をそのまま放棄してしまうことがある。典型的にはTEACCHの「構造化」嫌いの人たち。
 「個別化」が大事だ、と言うのはみんな否定しない。問題は、「個別化」が「マニュアル化」の対義語みたいに理解されてしまうこと。ただマニュアルを投げ捨てるだけの支援ならば、誰でもできる。何も新たに学ぶ必要がない。
 「個別化」とは「その人を固有の存在として知ること」にとどまらず、個人の中での差異化を進めること、すなわち「その人に対する思い込みを排除すること」である。支援の文脈だと「Aができるから、Bもできる」「Aが好きなら、Bも好き」という勝手な関連づけを正しく切断することだ。
 この切断は難しい。相手が異を唱えてくれればよいが、唱えてくれないことも多い。同じ支援ばかりずっと繰り返しても、そこに差異は見いだせない。支援の失敗は考え直す契機になるが、何を失敗とみなすか。その基準が自分の中にあるなら、ずっと失敗しないでいることもできる。
 差異化を踏まえた支援に成功してはじめて「あれは誤った思い込みだった」と振り返れることもある。ただ、体系化された支援方法をマニュアル的に導入するだけで、それは難しい。自閉症支援の底上げにこれから重要なのは、この点の反省ではないか。
 結局、「『発達』の十分なアセスメントなしに、正しく使える支援方法なんてない」という当たり前の話に尽きるのだが、福祉現場のアセスメントはもっと「個人の中での差異化」に自覚的であったほうがよい、と思う。