泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「落ち着かない」の曖昧さと服薬

 これで時間ができるだろうと思ったのは勘違いだった。負担感の大きかった仕事が一段落ついただけで。
 ばたばたする合間のケース会議に出ながら、「薬」に頭を悩ませる。
 保護者からの訴えに応えて服薬がはじまったとき、確かにこの場合はうまく薬を使っていくことが必要かなあ、と感じた。そして、薬が狙っていたとおりに状態が安定して、やはりよかった、とも思えた。
 ところが、環境の大きな変化をきっかけとして、状態がまた悪くなる。関係者が環境を改めて整えるが、どうも良くならない。すると保護者や学校の訴えに応じて、また薬の量が増やされる。しかし、もともと服薬をはじめたときに「問題」として捉えられていた部分は、今と少し違ったはずだ。「落ち着いて、家庭や学校で過ごせない」と括ってしまえば似たような課題でも、「落ち着かない」の種類が異なる。薬を増やしてしばらくが経ち、結果的に行動は穏やかになってきたし、活動にも安定して取り組めるようになっているが、以前は薬に頼らなくても環境調整で済んでいた部分まで薬の力を借りているようで、もやもやする。他にできる手はすべて打てたのか。「落ち着かない」の分析が雑なのではないか。
 卒業が迫ると「このままでは進路が危うい」「どの作業所も受け入れてくれない」と言って、学校も保護者も焦り始める。「福祉」から働き手として選別される生徒。あるいは「働かなくても、じっとしていられるか否か」で選別される生徒。障害者福祉ではなく、単なる「障害者の働く場づくり」でしかない。相談支援が本人の側に立とうとしても、本人と深く関わり続けてきたわけでないから、どんな支援が望ましいかは踏み込めない。すっかり福祉は「権力」になってしまった。「大人しく仕事できるようになってからうちには来てね」という圧力を感じさせるぐらいに。
 閑話休題。おそらく今の服薬量でしばらくは安定するのだろう。ただ、現況は支援環境の工夫に関係なく穏やかでいられるくらいの状態なのではないか。彼が各所で受けられている支援内容を見ると、本来ならば、もっと「荒れて」しかるべきポイントがたくさんある。最大限の努力をしてきた人たちはともかく、今はじめて彼に会った支援者は「こういう人」だと思うだろう。ずるずると支援者が堕落していく怖さ。
 長期休暇が近い。このまま変化なく行くのがよいのか。正しく本人が荒れたほうがよいのか。いや、荒れてよいはずはないのだけれど。怒りや不安はちゃんと表現されたほうがよいし、それは正しく解消されねばならない、ということ。