泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

発信・受信できる福祉のために

 ずっと過酷な日々が続いていた。まだ続いている。
 1月から新しい事業所を始められた。いわゆる放課後等デイサービス。国が「儲けすぎ」と標的にしており、間もなく公表されるであろう次年度の報酬単価でも何らかの影響が見込まれている事業である。
 周辺地域でうさんくさい事業者が次々と放課後等デイを開設する中、収益性が高い支援にしか手を出さない人たちとはいっしょにされたくない思いは今もあるが、法人の今後を考えると既存のやり方ではもう限界だった。これで放課後の支援は経営的に少し改善される、はず。
 営利企業なども含めて参入条件はどんどん緩和されていく一方で、建物等への規制は非常に厳しく、地域で事業ができる物件がほとんど見つからなかったことは、たぶん過去にも書いた。土地を借りて、小さな建物でも新築するしかないかと思っていたところ、大きめの建物が広さの割には安く使える可能性が出てきて、それから2年あまり。
 助成金を申請して部分的に認められたり、寄付を募ったり、どうにか改修資金を確保して、かつて建物の規制強化で地元を離れざるを得なかった他法人を呼び戻し、同じ建物の中で精神・知的障害をもつ方たちを中心とした作業所を開設してもらうことができた。駅前の一等地、仕事は飲食業である。お店の少ない田舎なので、大した広報もしていないのに適度な来客があって、滑り出しはよい。田舎らしく、首長や議会議長など、みんなやってきた。
 子どもの放課後支援の場と、障害者の働く場と、地域住民の憩いの場と。これからいろいろな展開が考えていけるお膳立てはできた。たぶん放課後支援の場だけならば、もっと閉塞感が漂っていたと思う。
 定員10人の事業所でできる支援は量的に限られている。子どもへの直接支援のほかに、自分たちができることのイメージを膨らませようとすると、子どもたちのことを広く人々に「伝える」、あるいは人々が「学ぶ」機会を増やしていくしかないのだろうと思っていた。要するに「発信」も「受信」もできる拠点である。
 また、障害児の放課後支援だけやっていると、地域とか社会とか世界とか、子どもの暮らしを取り巻く大きな文脈を見失ってしまうおそれがあるので、他団体や地域との接点をもちながら仕事ができる環境を作りたかった。障害福祉関係者にとどまらず、社会を変えたい意思をもつ人たちと連帯を深めていけたら、自分自身ももうちょっと元気が出せるかもしれない。
 実際にどこまでできるかは、すべてこれからである。今は、請求事務で目いっぱいだ。とにかく、ゆっくりものを考える余裕がない。
 我が自治体(の国保連)は、12月に指定を受けて、1月から事業をはじめている事業所に対して、給付費の請求のために必要な書類を2月4日に送ってきた。それを記入して郵送で送り返すと、また書類が送られてきて、そこにパスワードが書かれている。それをインターネットで入力して送信すると、請求に必要な電子証明書が発行されて、ようやく請求できるというのが、請求の仕組みである。関係者にはよく知られていることだが、請求期限は10日だ。時間的にギリギリである。かなりひどい。電子証明書の発行が明後日までになされなければ、うちは何も手続き上の問題がないのに、事業開始月(およそ120万)の請求ができないという異常事態になる。
 そんなわけで、相変わらず前途多難だけれど、そろそろ発信を再開しないと、自分がダメになりそうな予感に焦らされて、更新。