泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「ちょうどいい責任」だけを背負えない社会で

自閉症連続体の時代

自閉症連続体の時代

 一読した後に「自分にとってはそれほどインパクトのある内容ではない」と思ったのだが、いくつかのニュースと世間の反応を見て、やはり意義がある本なのだと思いなおした。けっこう時間が経ってしまったのでタイムリーとは言えないけれど、書き留めておきたい。
 もう数週間前のことになるだろうか。視覚障害をもつ高校生が白杖につまづいた中年男性に蹴られる事件が起きた。世間の反応は「なんてひどいことを」であった。少しして「蹴られる方にも非がある」という声があがりはじめた。すぐにそのような声に対する批判もまた巻き起こった。
 そこに、どうやら犯人がわかった、という報道がなされる。知的障害の男性だったと言う。そして、その後の報道はあまりなされなくなったような印象もある。
 事件報道があった時点では想像していなかった結末を迎えたことで、ネット上の反応を見る限り、考えさせられた人々は多かったように思えた。「障害者に暴力とはひどい」「暴力を受けた障害者の側が責められるなんてありえない」と言っていたら、「犯人も障害者らしい」とわかった、という事態は、いったい誰を(何を)責めたらよいのかわからなくする。
 さまざまな反応の中に「振り上げた拳をそっと下ろそう」というコメントを見つけた。犯人が知的障害であるとわかったときに「拳を下ろそう」という人もいれば、「そこに障害の有無は関係ない」という人もいる。「被害者を擁護していた人たちは、加害者も障害者とわかってどうするのかな」とニヤニヤする人もいれば、そんな暴力的な人物をひとりで歩かせるな、という主張も出てくる。
 ひとつひとつの主張に目新しいものはない。障害者がニュースに登場したときの反応としてはおなじみのものばかりである。それでも被害側と加害側の両方に「障害者」が関わったために(かつ時間差をおいて発覚したがために)、「責任」について考えをめぐらせる契機としては特別なものとなった。
 そしてまた時間が経ち、より凄惨な事件の容疑者が療育手帳を所持していた、という報道があった。詳しいことは全然わからない。ただ、その第一報を聞いたとき、地域で知的障害児者を支援する者たちが、さまざまな危惧をしたことだけは確かだろう。
 さて、『自閉症連続体の時代』について。書名には『自閉症』と入っているが、裏表紙の紹介文にはこうある。

病や障害と認定されるとはどういうことか。認定されなければ社会で生きづらく、認定されれば「自分のせいではなく、病のせい」だと免責される。では、名づけられなければ社会に居場所はないのか。
その最前線が、発達障害ADHDアスペルガー症候群高機能自閉症…という「連続体」だ。

 「発達障害」について、「『障害者』とされることを望む」人たちがいる、というのは、古くからの障害学や障害者運動にとって、少しばかり目新しい出来事だったのかもしれない。何かしらの生きづらさを感じるようになり、どうやらその原因に自分の「発達障害」があると気づく。そして、「私が悪かったのではなく、それは発達障害のせいだったのだ」と安心する。社会の側から新たに「障害者」のラベルを用意されて排除されるのではなく、人々が自ら「障害者」のラベルを好んで受け入れるという事態。これまでの障害者運動のように「障害は社会のほうにあるのだ」と言わずに、障害を個人に帰属させていくのだから、それは「障害」の「社会モデル」からも離れていき、「障害者」の生きづらさは社会のせい、という主張を弱めていくようにも見える。はたして、それでよいのか。そもそも、それで「発達障害者」はうまくやれているのか。
 著者は、言う。

免責のために自分や病気や障害があったりすると述べ、それは認められることがあるのだが、しかしその同じことによって、その私は「無能力」を証明してしまい、ではあなたはここから外れてもらわねばならないということになる。(250ページ)

障害による免責を肯定的に受けとった人たちを肯定しながら、なお、世間はそうは甘くないのだ、だから別のものを加えねばならないということである。(250ページ)

 何かしらの理由をあげて責任から逃れようとする者には、その理由が「本当なのか」と問われる。仕事でも学校でもいろいろと例が考えられるだろう。「みんなと同じようにできない」とか「求められている仕事ができない」ときに「障害」を理由にして「だから、私には(この人には)できないのだ」と言う。それが誰の目から見ても明らかならばよいが、そもそも明らかならば疑われることもないのだから、問題にならない。「目に見えない」障害だからこそ「本当にそれが理由なのか」と疑われ、説明が必要になる。
 自分たちのような支援者はしばしば自分では「理由」を説明できない障害児者を擁護しようとあれこれ相手に話すことがあるが、もちろん反論もある。まず「それは『性格』とどう違うのか?」。次に「理由はどうあれ、ここではそれができないと、困る」。
 「できない」理由として「障害」を証明することに人々の風当たりが強くなるのは、著者によれば、「私自身の意思ではどうにもならない」ことに対して責任を問わないというのが建前であり、この社会では人々が自身の意思に関わらず、「結果」に対する責任をとらされるからである。

「私たちは近代社会の「たてまえ」として要求されている分よりも大きな責任を負っているのである。「自己責任」という言葉を厳格に使えば、自己責任でないものについても自分に降りかかってくるのが、この社会の実際のところなのである。(249ページ)

 「障害があるから、できない」という主張は、「障害はないけれど、できないことへの責任は厳しく問われる」立場の人たちから不快に感じられてしまう。だから、「障害があるから、できない」と言うのはあまりうまくいかない、というわけだ。
 そこで、著者の示す方向性は、基本的に「責任そのものを緩める」というものである。

行くべき方向は責任の強化、責任と無責任を区別しようとする営みの強化の方にはない。むしろそれは逆の効果をもたらすだろう。(269ページ)

嘘をつかなくてもすむようになる、本物であることを証明しなくてすむというのが、基本的な答ということになる。理由・事情と関わりなく暮らせるという条件があるなら、名付けたり線引きをしたりせねばならない度合いを、いくらかは緩くできる。(中略)専門家に、専門家によって作られた判別の基準に委ねることも、すっかりなくなりはしないし、またそれが必要な場面も残るのではある。しかし少なくはなるし、その重さは軽くなる。(269ページ)

 できなくても、障害を理由に「できません」と言わなくてよい。ただ「できません」と言って、みんなと同じ土俵から降りられる世の中であればよい。ここで強く意識されているのは「就労」である。
 「免責だけでは済まない」こと(たとえば求められる仕事ができないこと)について著者は、無理してまで参入する必要がなくなった時代である、と主張する。確かにそれで生きられる条件を整えるほうが「障害」を理由に免責されようとしてうまくいかないよりも穏やかでよいように思える。当の本人がそれで自尊心を失わない社会でありさえすれば。
 さて、冒頭から記したような「加害」の責任についてはどうだろうか。著者は何かが「障害」とされる契機のひとつとして「加害性」を挙げてもいる。ただ、上に書いてきたようなことを直接に「加害性」と結び付けて主張しているわけではないし、それはこの本のメインテーマでもない。ただ「違っていること」が「できないこと」や「加害」に関わることは言っている。実際、事件についての責任を「知的障害だから」と免責することが、障害者へのバッシングにつながるとすれば、それはまさに「逆の効果」のひとつだろう。
 では「加害」について、免責のために「障害」が過剰に(あるいは過少に)使われないためには何が必要なのだろうか。就労のように「みんなと同じ土俵から降りてしまってもいい社会だ」と言える話でもない。
 まず、自分たちはそもそも「障害」と「健常(定型発達)」の間に普遍的な境目などなく、社会生活における不適応が生じている場面から原因を遡るようにして「障害」は特定されていくものだと知っている。「障害者」と「健常者」がいるというよりも、特定の事柄について、特定の環境の中で「できる」者と「できない」者の差異が生まれているだけである。だから「知的障害である」とか「発達障害である」という診断上の線引きは具体的な免責のレベルを全く示せない。ところが、一般的には知的障害や発達障害であることが、完全な免責につながるように理解されて、非難をされやすい。この誤解は解かれなければならない。
 次に「障害者」による加害とその免責の程度について、世の中がざわざわとするのは、人々がそれまで生きてきた中で、自分自身について「適切な範囲」で責任をとらされてこなかった、そもそも責任の適切な範囲を証明できてこなかったことに対して抱いているもどかしさや諦念の裏返しなのかもしれない、と思う。
 「健常」とされる人々が失敗したり、罪を犯したとき、それは誰が(何が)悪いのでもなくお前が悪いのだ、と叱責されたり、罰せられたりする。あるいは、理由はどうあれお前がやってしまったことには変わりがないとされる。「私のせい」であると考えられる部分とそれでは納得しがたいと思える部分の両方があってもよいと思うが、「結果」がすべてだという規範があり、言い訳をしないことが潔いともされる。過剰と思える責任をとらされてきた者は他人にも重い責任を課したくなるだろうし、責任のとり方について赦された経験から自身が学べたと信じている者は「障害者」に対してもいくらか別の可能性を考えられるかもしれない。
 過ちと責任と刑罰と更生のバランスはいくつものスタンダードが並存するのではなく、ひとつでよいと思う。問いなおせることがあるとすれば、「障害」をもたない者は犯した罪や過ちに対して「ちょうどいい責任」を背負い、刑罰や更生のチャンスを与えられてきているのか、ということだろう。
 最後は、本のレビューから少し離れてしまったけれど、自分が過去に背負わされてきた「責任」って、当時の自分にとって「ちょうどいい」ものだったのだろうか、とそれぞれが思いながら読んではどうだろうか、と思った。