泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

聞かれなくなった「行政責任」

 給付費の請求ミスをして、はじめての過誤申し立て。
 書類を地元自治体に提出して、手慣れた感じで受理されて、6月の請求時に再請求してください、と言われて終了。
 そのやりとりをしながら思う。自治体福祉課の職員とひとりひとりの利用者について対話する機会が本当に減ったと。このように思えるのは昔(と言っても、ほんの10年ほど前)を知っているからで、新設の事業所なんてほとんど市町村行政と話した経験さえなく、役所というのは単にサービスの支給決定をしてくれるところとしか見えていないのではないか。
 制度的には確実に「相談支援」が存在感を増す中にあって、現実はまったくそれに追いつかず、わずかばかりの相談支援事業所の関与か、あるいは福祉サービス事業所との直接のやりとりの中で支援が行なわれているのがこのあたりの現状。いろいろ不十分であるものの、行政のすべきこと、はかなり見えにくくなっている。
 障害福祉に関して言えば「措置から契約へ」と移行した10年ほど前なら「行政責任の後退」なんてことも叫ばれた。それは「基礎構造改革」などとも呼ばれて、福祉業界全体の傾向でもあった。最近では、そんなことを言う者さえ少なくなったように思える。制度としてサービスメニューをそろえたのだから、あとはやるもやらないも民間次第。何かに困って行政窓口に来た人には、相談支援事業者を紹介。使えるサービス、使える事業所を確認の上で、支給申請をしてください、で済ますことができるシステム。
 その一方でなんちゃら委員会とかなんちゃら協議会ばかりが増え続けている。各種の「計画」づくりにも熱心だ。民間まかせなのに、行政計画として社会資源の需要予測とか目標設定することの滑稽さ。
 今こそ公私関係についての議論が価値ある時代ではないかと思うのだけれど、今どきの福祉研究の動向はどうなのだろう。少なくとも学会誌に若手が論文書くようなテーマには思えない。これだけシステムが変わってくると、「民」の側も行政に何を期待してよいのか、だんだんわからなくなってくるのではないか。行政の機能があらかじめ一般的に定められているというよりも、個別に「行政が動かないとうまくいかないこと」が集積され、それぞれの地域での行政の役割が定まっていくようなイメージ。よくあるのは金の話、土地建物の話、学校教育の話、公的な福祉機関の話などか。
 もちろん悪いことばかりではない気もする。効率的な機能分化が進んだのだという説明もありうる。しかし、小さな自治体だと「もっと以前はひとりひとりの顔を見ながら、個々のケースを支えたり、さらなる地域システムを考えていくための対話ができていたのではないか」と思ってしまうのも事実。大事なのは、ノスタルジーではなく、新たなシステムが現実の支援において何かしらの「後退」をもたらしているのか、を明らかにすることなのだろう。その検証はまだできてない。システムが変わったから、ではなく、昔から変わらずにずっとできていないこともあるのだし。
 今夜はもう眠くて考えられない。寝よう。