泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「わからない」というクッション

 年末年始も支援で64000歩。昨日だけ休み。親と祖母の顔を見るため、帰省。
 祖母は認知症の入口あたりにいるようだ。
 記憶の衰え。不安も高まっている。認知症ケアは自閉症支援と結び付けられる部分もあるし、近くにいたらたぶん自分のスキルが活かせるのだけれど、離れていると難しい。
 母親はそんな祖母にイライラとしていた。「怒られてばかりいる」と話す祖母に、日々関わっている子どもたちを重ねる。覚えられないこと、忘れてしまうことをなじられる哀しみ。
 どうにもならないことに対する想像力を皆がもてるようになれば、寛容さも高まるだろうに。「日常」とは皆が経験するものだから、直感的に自分と比較して不満をもらしてしまう。ワンクッションおいて、考えることができない。
 対人援助の仕事を続けているからといって、万人に向けて共感性が高まるわけではなく、意見や考えの異なる相手にやけに攻撃的な人だってたくさんいるのだけれど、相手との距離が開けば開くほど「何か事情があるのかも」と疑いやすくはなれるように思う。相手のことが「わからない」からこそ、落ち着いて考え直せる。中途半端に「わかっている」と思ってしまえば、衝突も起きる。
 と、話題になっているtweetのこともあわせて、考えていた。
子供が車内で騒いでいたら 舌打ちぐらいはしてもいい?
 http://togetter.com/li/612345