泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

支えながら、評価しつつ、対等でもあれるのだろうか?

 自己資金が足らないとなれば、どこかに求めるしかない。だから、とある申請をした。結果を待っている。
 NPOに大きな資金を出してくれるところは、社会を変えようとする組織だ。資金を求めるNPOもまた社会を変えようとしている。同じ志をもちながら、一方が一方に資金面で援助をする。資金を出すには、そのNPOが本当に社会を変えてくれるのかどうかを評価しなければならない。資金を受けるには、さまざまな団体が資金を求める中で、どうやったら自分の団体が評価してもらえるのかを練らねばならない。そんなことを指南してくれる講座等も存在する。
 金融機関からの融資であったならば、結果に対してただ喜ぶか悲しむかのどちらかだろう。しかし、今回は違う。社会のありように対して同じような理想を共有しながら、一方的な評価を受けることについて、複雑な感情が湧く。
 法人と地元地域の将来を大きく左右するぐらいの決定が、自分の知らない誰かによってイエスかノーかの二択で下される。うまくいけば自信にも実利にもなるに違いないが、うまくいかなかったときに何が残るのだろうとも思う。自分の伝え方が足らなかったと反省するのか、自分たちの実践そのものに自信を失うのか、また見通しのもてなくなった未来を悲観するのか。支援する相手や地元地域から評価されるような実践をどれだけ続けても、それだけでは「つまらない」と言われたとき、社会を変えるインパクトに欠けると思われたとき、どのように自分たちの実践を省みればよいか。大事なものを見失ってしまわないように用心深くあらねばならない、と思う。
 自分たちと相手の評価軸が少しでも異なるならば、単に「ノー」を突きつけられても、どこかで前向きにもなれる。しかし、同じ理想を掲げる者から同じ評価軸でダメ出しをされるのは、やはり落ち込む。
 では、自分がダメ出しをする側にまわってしまっていることはないだろうか、と思い返してみる。ああ、それはある。言葉に出すことも出さないこともあるけれど、他の障害福祉サービス事業所に対して、学校教員に対して、ときには保護者に対して、障害をもつ子どもとの関わりや環境整備について「もっとうまくできないものか」と思ってしまう。協調して「ともに支える」はずの人々を評価する側にまわってしまう。なんだか上から目線で嫌な奴だ。態度に出さなかったとしても、抱いた感情がすでに謙虚さを欠いている。
 とはいえ、これは悩ましい問題とも思う。支援者は当事者から学ぶこともできるし、自分のもつ知識や技術を疑うこともできるのだろうが、とりわけ知的障害や自閉症の人々への支援については一定の定まった方法論があって、共有しなければならないこと、統一しなければならないことも多い。みんなが自分のやりたいように支援すればいい、とは言えない。
 しかし、多くの関係者がひとりの子どもに向き合うとき、仕組みの上では誰が誰より優位であるわけでもない。子どもを中心に置くのはもちろんとしても、支援のあり方について子ども自身は示してくれないから、周囲の人々は悩む。医師がいるとなんとなく序列の最上位に置かれやすいが、あとは関係者の中で自分が一番よく子どもを理解していると自認しているか、皆が力量を認める人がなんとなく皆を導いていく。この流動性を解消する仕掛けは、どこにも組み込まれていない。障害児について、昔よりもはるかに支援の総量が増え、多くの関係者が連携するように求められる時代。ダメ出しをされて落ち込んだり、苛立ったりする人々はこれから増えていくのかもしれない。
 支えられなければいけない人は、子ども以外にもたくさんいる。支えながら、評価しつつ、対等でもあることは可能なのだろうか。最後の「対等」が難問だ。