泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

見た目で「知的障害」と判断される、ということ

 ガイドヘルプで知的障害の彼と、都会へ。
 彼はそのいでたちから、なんとなく「違い」を感じさせる雰囲気をもっている。年齢相応の恰好だとか季節感だとかを意識するのは難しい、というか、彼のスタイルのようなものがある。裸の大将まではいかないが、今日は少し寒そうにも見えた。
 店で買い物をするときがある。レジに行って、お札を1枚出せれば、たいていの買い物はうまくいくものだ。しかし、店員がいろいろ彼に話しかけることがある。だいたいポイントカードがどうのこうのという問いかけである。彼はうまく言葉で返せないが、なんとなく拒否を表すジェスチャーを身に着けてきた。店員はその雰囲気から察したのか、それ以上ごちゃごちゃとしたやりとりはせずに、淡々と品物を袋に詰めて彼に渡す。「たぶん知的障害の人だろう」という予測が瞬時になされて、その結果として円滑なコミュニケーションにつながっているとも言える(数メートル離れて立っている自分の姿が、その予測にいっそうの確からしさを与えている可能性もあるが)。
 それからほどなくして屋外を移動中、繁華街のどまんなかで、あきらかに声をかける相手を選ぶようにして近づいてくる中年男性がいる。
 誰にでも声をかける人はセールスなどで珍しくもない。さっきも電気屋で「今なら○%割引ですが」などと声をかけられたばかりだ。だいたいエスカレーターとか出入り口の近くにいて、ひたすら声をかけ続けている。が、今回は路上で、「彼」をめがけて声をかけてきたように見えた。自分は少し後ろを歩いていたし、ポリシーとして名札をぶらさげるようなこともしていないから、たぶん彼との関係は気づかれていなかっただろう。彼の前にまわりこみ、その顔をのぞきこむようにして、男性が言う。
「○○。募金をお願いします」
 ○○のところは早口で滑舌が悪く、聞き取れなかった。しかし、募金箱さえももっておらず、まったく「募金」ムードがない。彼は気がついたのかつかなかったのか、そのまま通り過ぎようとした。すると、その男性は歩きながらついてきて、もう一度言う。「募金をお願いします」。彼の視線が男性のほうに向く。さらにたたみかけられる。「募金をお願いします」。
 少し後ろを歩いていた自分がここで間に割って入った。すっと手を挙げて男性の話をさえぎり、そのまま振り返ることもなく、いっしょに歩き去る。それで、終わり。
 本当に募金であったのかどうかは、わからない。本当に募金であるならば、賛同するもしないも彼の意思をくむべきだったのかもしれない。とはいえ、彼はその特性から「募金しますか」と聞かれれば、無条件に「募金します」と返事してしまう可能性が高い。声をかけてくるまでの様子から自分は疑ってしまったのだ。彼を「知的障害」と思って、狙ってきたのではないか、と。
 知的障害であると外見から判断されることは、ときにそれだけで一定の配慮を得られることにつながる。その一方で、そこに悪意をもって近づくこともできる。比較的に障害が軽く、ひとりでもかなり行動できるような人であってもヘルパーと出かけることを望むときには、「悪意ある人々と接したときの備え」を本人(あるいは家族)が求めているという側面があるのだが、悪意をもって近づく人たちはどれほどそのことの重大さに気づいているのだろうか。
 彼はもうひとりで買い物にも食事にも行ける。電車にも乗れる。それでもヘルパーがつかなければいけない。自分はボランティアでもなく、これは公的な制度に基づく支援である。社会的なコストだって多く発生している。ひとりで出かけられるならば、そのほうが彼にとっても自信になるに違いない。にもかかわらず、こうしたことがあると、関係者みんな「ひとりだち」を躊躇せざるをえない。
 もし本当に募金だったのならば、こんなことを考えて申し訳ないけれど。今回に限った話でなく、過去にもいろいろあるのだ。だから、書いた。