泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

教育への不満を福祉が聴かねばならないのはなぜだろう

 対人援助の世界で生きていれば、電話をとった瞬間に「長引く」ことがわかる相手というのがいると思う。
 今夜は、そんな電話が2件。来月の利用調整についての話からはじまり、あとは相談のような愚痴のような報告のような内容で、落としどころがあるわけでもなく、ただひたすら聞く。ぐるぐると話が回り続けることもあれば、転々としていくこともある。
 思い返せば、どちらも学校がからんでいた。教育システムや教員に抱かれた不信に対して、支援者としてどう反応すべきか、というのは難しい。連携すべき機関が子どもや家族に対して「それはあまりにひどいんじゃないの」と思えるような対応をしているとき、「福祉」はいかに動くべきか。
 かかってきた電話を共感的に聴くことはできる。問題はその後だ。相手が学校だと、具体的な動き方が見えづらい。相談をする側も受ける側も見えない。そもそもこれは「福祉」に寄せられるべき相談なのだろうか、とも思う。「福祉」が働きかけることによって変わる「教育」は少ない。しかし「教育」は自らへの批判を受け止める仕組みを内部にもっていない。だから、みんな「外圧」に頼ろうとする。それが議員のときもあれば、精神科医のときもある。学校は権威や権力によってしか動かせない、というよりも、動かせないような相談が外部に寄せられるということだろう。ただ、その数がとても多い。
 保護者ががんがん攻めていけばモンスターペアレント扱い。黙っていれば、何も問題はなかったことにされる。福祉業界が確実に「選べる」仕組みに向かってきた中で、これほど親が「適切な距離感」に悩まされる相手は珍しいだろう。もっと大騒ぎになってもおかしくないのに、そこまで至らないのは管理職も担任もころころと変わるからだ。1年、2年と我慢すれば、困難は過ぎ去るだろう、と。裏を返せば、そのせいで「教育(やそれに付随する支援)の質をどう高めるか」「教育(やそれに付随する支援)に対するクレームにどう向き合うか」を教育システムが高めていく機会が失われているのかもしれない。
 じゃあどうすればいいのかを考える余力が今夜はないので、ここまで。