泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

放課後の公園にて


放課後の公園に行くと、さまざまな発達の子どもの姿が見られる。


発達が凸凹した子どもは、同じく凸凹した子どもと遊ぶ傾向が強いと思う。
自分が見る限り、少なくとも外遊びではそうだ。


そして、「いっしょにいる」ことで「友達と遊べている」という実感を得ている。
客観的には、あまりうまく遊べていない。


「遊び」は、何かを媒介として求める。


しかし、明確で複雑なルールを伴うものは一般に「遊び」から離れていく。
進む先は「スポーツ」だろう。


「遊び」は、あいまいで単純なルールが流転していく。
誰かの一声で、簡単にルールは変わる。
鬼ごっこでさえも、理不尽な点ばかりだ。


そんなあやふやなものに身を投じながら、多くの子どもは幼少期を過ごす。
この時点では誰しもが「いっしょにいる」ことで「遊べている」と感じている。


「外遊び」に限ると、そこにだんだんとはっきりしたルールが持ち込まれていく。
大人が参加していても、一定の秩序を感じることができるくらいに。
同時に、ルールが理解できない者への風当たりが強まる。


小学校の3年とか4年というのは、こうした過渡期なのだろうと思う。
5年にもなると、外遊び自体をあまりしなくなる。


過渡期はチャンスであるのかもしれない。
「ただ、いっしょにいる」以上の遊び方ができる。


しかし、その期間はとても短い。
そして、当事者だけの努力にまかせていても難しい。


その難しさについていけない子どもが集まり、似た者集団ができていく。
別にそれでかまわないとも思う。が、子どもにも葛藤はある。
うまく遊べないから、みんなと遊びたくない、とは必ずしもならない。


発達凸凹の子にとって、ルールははっきりしていたほうがいい。
同時に、シンプルなものがいい。
外遊びでルールが視覚的に明示されることはほとんどない。
言葉に頼りやすい環境の中で、ごちゃごちゃしたルールは伝わらない。


月に数回の支援の中で、自分がシフトに入る回数も限られている。
あと1年くらいで、どこまでできるか。