泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「愛されないから愛せない」と悩む母たちへのマンガ

 やや刺激の強いタイトルのマンガがfacebookで紹介されてきて、amazonを見に行ったらレビューが星5つと星1つにまっぷたつ。自分の目で確かめてみようと思った。

母親やめてもいいですか

母親やめてもいいですか

 いわゆる「コミックエッセイ」である(定義はよくわからないが)。発達障害をもつ子どもの母親自身が描いたマンガや本はこれまでにもたくさんあり、その多くは子育て中の保護者(特に母親)が知識を得たり、共感を覚えたりするような内容を目指していたと思う。マンガにすることで本が苦手な人も手にとりやすくなる。
 「こういうことって、あるある」「自分だけじゃないんだ」という共感は、親にとって単なる気休めではない。私的な体験と思われていた苦労が、「みんな」にとっても同じように苦労であったと知ることは、「では、どうすればいいのか」という知恵を得て、前に進んでいくための大事な糧である。本やマンガは一方的な情報の流れではあるものの、「親の会」「セルフヘルプグループ」などと呼ばれるものに期待されている機能を、少しばかり担ってくれるかもしれない。
 この本が賛否両論を招く背景にはおそらく、そのような「あるある」機能を果たしうるのか、という疑念がある。この母親の体験は「特殊」ではないのか、と。さらには「これには共感できないし、すべきでもない」という反感を抱く者も出るだろう。いったいどのような人が読むとよいマンガだろうか。また、どのような人は読まないほうがよいマンガだろうか。
 帯の裏表紙側に「主なあらすじ」が書かれていた。まず、全体の内容を知ってもらうにはその引用で十分と思う。

幼い時に父を亡くした私の夢は「家族をつくって平凡に暮らすこと」。だが、不妊治療、流産を乗り越え、ようやく授かった娘は広汎性発達障害だった。娘が幸せになる手がかりを探して療育に奔走するも、わが子と心が通いあわないことに悩む。さらに将来を悲観し、気づけばうつ状態に。チャット、浮気、宗教…現実逃避を重ねるなか、夫に突きつけられた離婚届。娘と離れ、徐々に現実から目をそらし逃げていたことに気づくのだが…「親は子どもの幸せを諦めてはいけない」娘の障害受容ができず、一時は死をも考えるほど、どん底に落ちた著者の絶望と再生の物語。

 とりわけ読者が規範的にとやかく言いたくなってしまうのは、母親の浮気から離婚に至り、子どもが父親に引き取られていく展開の部分である。目次のタイトルが象徴的だ。

第7章 子は鎹(かすがい)ってホントですか
第8章 チャットは逃避のはじまりですか
第9章 女になっていいですか
第10章 信じる者は救われますか
第11章 娘を手放していいですか

 そして、最終章は「母親続けていいですか」。母親はこれまでを反省的に振り返り、もういちど子どもと向き合いはじめる。まさに「絶望と『再生』の物語」になっているのだが、さまざまな困難の中でも子どもを育て続けてきた親が読めば「都合がよすぎる」と思うこともあるだろう。性的なことや婚姻関係についての規範意識は、子育てや障害に対する考え方と直接には関連しない。だから「それは許せない」という人は、どうしても出てくる。「母親たるもの何があっても浮気など許されない」「それをマンガにして出版する自己顕示欲がしゃくにさわる」という人には、この本を薦めない(「父親」の重要性も示唆されていると思うのだが、それでも許せない人には許せないだろう)。
 そんなことよりも、このマンガで読み取られるべきことは、まず親子関係において自明視されている「愛着形成」の難しさ、だと思う。前半部分で描かれている自閉症の障害特性、医療機関での長い長い診察待ち、療育の役割などについては、さまざまな媒体でよく言われている内容だ。しかし、「子どもが私に対して愛着を示してくれない」「私も子どもをかわいいと思えない」という苦悩に対して、応えようとしたマンガを自分はあまり知らない。
 おもちゃをいろいろ与えてみても興味を示さず、大人にとっては魅力のよくわからないものへの強いこだわりから離れられない。良かれと思って連れて行った遊び場所でパニックを起こす。自分と目を合わせてくれないし、言葉でのコミュニケーションもできない。多くの親は「この子にとって、私はどのような存在なのだろう」と思わされる経験をする。単にごはんを作ったり、身の回りの世話をしてくれるだけの存在でしかないのではないかとも考えたりする。
 物語の終盤、離婚して子どもと別れるとき、父親の車に乗り込んだ子どもは著者に楽しそうに手を振る。著者は思う(引用文中の「たから」とは子どもの名前である)。

ほらね…たからは寂しいとか悲しいとか思わないんだよ。6年もいっしょにいたのに。
広汎性発達障害の子は人に愛着を持ったりしないんだ。たとえそれが母親でも。
小さい頃、私が30センチ離れるだけで泣いていたたから。あれはたからの「こだわり」がママだったというだけ。母親を恋しいと思う気持ちとは別ものなんだ。
でも、私だって同じ。たからが行っちゃう。いつもそばにいたたからが遠くへ行っちゃう。なのに涙が出てこない。

 著者は離婚後にその母親から「『理屈ぬきに絶対に離れたくない』って思うのが母親なんじゃないの?」と責められ、「…じゃあ私は母性が薄いのかもね!!」と投げやりに言い返す。「親はどんな子どもでも可愛いと思うべきもの」という呪縛は、彼女をずっと苦しめてきた。子どもの誕生を心から喜び、乳児のあいだは子育てを楽しめていた彼女が、子どもと離れることになったときの理由づけはこうだ。

仕方ない。「微笑んだら微笑み返してくれる」。親子の愛情はそうやって育っていくのだから…。

 著者の子どもは自閉症の中でも「受動型」と呼ばれるタイプに属する。各章末に掲載されてマンガを補完している解説文にもあるが、受動型の子どもはよく状況が理解できないままでも周囲に言われたとおり行動しやすい。すると保護者は、子どもがみんなといっしょに動けていても、「ただ指示されたとおりにしているだけで、いっしょに遊べているわけではない」と思えてしまう。子のことをよく勉強している親ほど、そう思える。
 自閉症には、他にも「孤立型」「積極奇異型」があると言われており、それぞれに異なるタイプの対人関係の困難さをもつ。こうした類型化は自閉症が「関係性の障害」であることを特に強調したものなので、子どもの特性理解を促す反面で、対人関係の発達において悲観的なイメージを抱かせてしまいがちだ。
 「子どもに愛してもらえない」から「私も子どもを愛せない」という親に、我々はどう応答すればよいのか。最後の2章に、そのヒントがあると思う。著者が離婚してから8か月ほど経過してからのエピソードだ。物語の結末に関わる部分なので、そのまま詳細を書くことはできない。
 やや抽象的にまとめておくと、まず「愛着」というのは発達の中で生じてくるものであり、その発達に障害(凸凹と言ってもよい)をもつ子どもたちの愛着形成はずっと遅くなりやすいということ。また、愛着を抱いていたとしても、子どもがそれを周囲に理解されるように表現するのは容易でないということ。そして、「障害がなくなってほしい」と願うことでしか「自分は子どもを愛している」と実感できない親に対しても、「幻」から解き放たれるための支えと時間が必要であるということ。発達についての知識は重要だが、それだけでもない。
 「どんな子どもでも人と関わりたい」「どんな子どもでも親を愛している」と断言できるかと言えば、これはきっと科学的な検証が難しいテーマだ。それゆえに愛着の可能性はいくらでも信じられるし、いくらでも疑える。いくら事例をあげられても、「うちの子は違う」と思って拒み続けることはできる。信じられるかどうかは、科学的知識の説得力とは別のところにあり、親の側の用意が必要であるのだろう。
 その用意ができていく過程を指して「障害受容」と呼ぶ人もいるが、すっきりとした一定の境地があるわけでもなく、一進一退を繰り返すことだってある。自分はつい先日、家族との死別を淡々と受け止めているように見える子どもの様子に複雑な気持ちを抱く親から話を聴いていた。その子はもう青年期だ。著者だって、先のことはわからない。子どもは変化するから、ずっと信じ続けるのは簡単でない。
 信じられなくなったとき、さらには信じられない自分を許せなくなったときに、「実は私にも以前そんなことがあってね…」と語ってくれる人が必要である。しかし、なかなか表立って語る人は現れない。子を信じない親に世間の風当たりが強いことを、親たちは知っているのだから。たくさんの「禁句」を飲み込みながら、絶望を深めていくとしたら、どうか。
 だから、このマンガは貴重だ。帯の表表紙側にはこうある。「わが子が可愛くないお母さんのために」。あとがきによれば、編集者は「ポジティブになれないお母さんのために書いてみたら?」と提案したと言う。
 その意味で、著者と編集者が目指したところには、きちんと到達できている。著者による杉山登志郎氏(児童精神科医)へのインタビューも収録されていて、その内容もバランスがよい。良作。
 最後に。近ごろ「コミックエッセイ」の出版が増えていると思う。最近自分が読んだ作品の中で、子どもと関わる者にお奨めしたいものを以下に少しだけ挙げておきたい。マンガはみんなに紹介しやすいのが、うれしい。

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